橋本裕の日記
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特攻作戦の生みの親といわれる大西滝治郎中将について、これまで沢山の本が出版され、またその生涯は映画化されている。軍隊が嫌いで、特攻も好きにはなれないが、現代史に興味がある私は、そうしたもののいくつかに眼を通したことがある。
私の理解する大西中将は、海軍のなかでもなうての頑固な主戦論者で、児玉機関と通じて米内大将の終戦工作を終始妨害する狂信的なウルトラ右翼である。玉音放送をめぐる内幕を描いた「日本の一番長い日」でも、阿南陸軍大臣とともに、軍令部次長の彼に和平を阻止しようとする最右翼の役回りがあてがわれていた。
私は見ていないが、鶴田浩二が演じる東映映画「ああ決戦航空隊」でも、彼は人情味のあるヒロイックで悲劇的な愛国主義者として美化して描かれているという。大西については批判する側も賛美する側も、彼を徹底抗戦を唱える最右翼の主戦派として捕らえている。
ところが、角田和男さんは「修羅の翼」のなかで、これとは違った大西滝治郎像を提出している。彼もまた早期講和を望んでいて、特攻作戦を米内海軍大臣に進言したのも、じつは終戦工作の一貫としてだという。
昭和19年11月、角田さんは特攻要員を連れてセブ基地からダバオ基地へ飛んだ。ダバオ基地の司令部に大西長官の使いとして小田原参謀が作戦指導にきており、基地司令官の上野少将を前にして、角田少尉に次のような話をしたという。
「ガダルカナル以来、日本は押されどおしで、一度として敵の反攻を食い止めたことがない。一度でいいから、敵をレイテから追い落とし、それを機会に講和に入れば、七三の条件でできる。敵七分、味方三分の割合である。具体的には満州事変の昔に帰ることだ。ここまで日本は追いつめられているのだ」
「その日本を守るためにも、特攻を行ってフィリピンを最後の戦場にしなければならない。このことは、大西長官一人の考えではない。東京を出発されるに際して、長官は米内海軍大臣と高松宮さまに状況を説明申し上げ、『私の真意に対し内諾をえた』とおっしゃっている。大臣と宮さまが賛成された以上、これは海軍の総意とみていいだろう」
「いま東京で講和のことを口にしたら、たちまち憲兵に捕らえられ、国賊として暗殺されてしまう。長官は死ぬことは恐れないが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ、とおっしゃっている。宮さまといえども、講和の進言を陛下になさったとわかれば、命の保証はないような状況である。もし、このようなことになれば、陸海軍の抗争をきたし、強敵を前に内乱にもなりかねない。きわめてむずかしい問題であるが、これは陛下おん自らきめられるべきことであって、宮さまや大臣や軍令部総長の進言によるものであってはならぬ」
「大西長官の真意を話そう。特攻は九分九厘成功の見込みはない。これが成功するとおもうほど長官はバカではない。では、なぜ成功の見込みのない戦法を強行するのか。ここに信じていいことが二つある。
1、 万世一系の慈をもって国を統治されたまう天皇陛下は、この特攻のことを聞かれたならば、必ず戦争はやめろ、と仰せられるであろう。
2、 その結果が、たとえいかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとするとき、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって、陛下自らのご仁心によって、戦争をやめさせられた、という歴史ののこる限り、5百年、一千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう。
陛下自らのご意志によって、戦争をやめろと仰せられたならば、いかな陸軍でも、青年将校でも、したがわざるをえまい。これ以外に日本民族を救う方法があるだろうか。戦況は明日にでも講和したいところまできている。しかし、もしもこのことが万一外にもれて、将兵の士気に影響を与えては困る。最後まで、このことは知られてはまずい。敵をあざむくには、まず味方よりせよ、ということわざにもあるように、味方からだましていかねばならぬ。
大西長官はわしに向かって『参謀長、ほかに日本を救う道があるだろうか。あれば、わしは参謀長のいうことを聞こう』といわれた。わしは、わかりました。とうなずくほかなかった。 長官は『ほかの参謀はわしがおさえる』とまでいわれた。これが、特攻の意味だ」
フィリピンの海軍航空部隊が全滅すれば、さすがの天皇陛下も、講和の意思を固められるのではないか、これが特攻作戦の隠された意図であり、大西中将の意図だという。小田原参のこの言葉は意表をつくもので、俄には信じがたい。
小田原参謀によって語られた大西中将の言葉はどこまで本当だろうか。角田氏は小田原参謀の話を聞いていた唯一の生存者であるダバオ基地司令官の上野少将に確認を求めたが、彼は旧軍人らしく黙して語らなかったという。上野少将は特攻作戦そのものに反対で、小田原参謀も彼を説得するためにこんな長広舌を振るったようだ。
特攻作戦にこうした終戦工作に向けた意図があったかどうか、私はこれもまた特攻の一面ではなかったかと思っている。こうした一面が当初にあったからこそ、和戦派の米内海軍大臣も了解したのだろう。しかし、こうした意味での特攻はレイテ作戦の失敗で完全に破綻した。
天皇は特攻作戦について戦況を奏上した米内海軍大臣に、「そのようにまでせねばならなかったか。まことに遺憾であるが、しかし、よくやった」と答えている。及川軍令部総長には、「まことによくやった。攻撃隊員に関しては、まことに哀惜に堪えない」と言われたが、天皇から、「早く和平を考慮するように」との言葉はなかった。
栗田艦隊がレイテに突入して「捷一号作戦」が成功していれば、あるいは和平のチャンスが訪れたかもしれない。しかし、これもかなり困難を伴ったことだろう。当時の状況の中で戦争を終わらすことはなかなか難しかった。
やがて絶望的な戦局のなかで、ますます特攻精神が強調されるようになる。たとえ特攻作戦が戦争終結の秘策であったにせよ、皮肉なことにそれは「一億総特攻」「一億玉砕」という過激なスローガンを生みだし、国民感情を煽り立てて、戦争終結の大きな妨害となったわけだ。
http://www.warbirds.jp/senri/23ura/39/genten.html
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