橋本裕の日記
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1944年10月21日、にレイテ湾で始まった戦闘機による「特攻攻撃」は、このあと終戦まで続く。小型空母を轟沈するなど、出足は好調だったが、やがてアメリカもこれに警戒するようになり、ほとんど戦果はあがらなくなる。
戦後アメリカが公表した数字によれば、特攻機による艦船の損害は沈没48、破損310だという。沈没した艦船のうちわけを見ると、小型空母1、護衛空母2,駆逐艦13、その他の小艦艇8,輸送用艦船24である。これはアメリカ艦隊の規模からすると、たいして深刻な被害ではない。
これにくらべて、特攻によって失われた戦闘機は2891機以上にのぼり、戦死者は3724名以上である。戦果と比べたとき、その犠牲はあまりにも大きい。客観的にみて、特攻攻撃が合理的な戦術であったかどうか疑われる。
特攻による命中率は18パーセントだったという。これはマレー沖海戦での通常の爆撃機による命中率が40パーセントを超えていたことからみても、それほど高い数字ではない。命中率だけみても、練達の急降下爆撃機にはるかに及ばなかった。
その理由は、特攻に選ばれたのが20歳前後のまだ戦闘経験に乏しい若者達だったからだ。特攻隊員の多くは操縦年数が1〜2年、飛行時間300〜600時間で、なかには200時間ほどで投入された若者もいた。
それではなぜ、このような無謀ともいえる特攻作戦が敢行されたのだろう。当時、戦闘力を持つには操縦年数5年以上、飛行時間2000時間以上の経験が必要だといわれていた。しかし、戦況が逼迫するなか、日本軍にはもはやそれだけの時間がなかった。
単独飛行がやっとという隊員でも出撃しなければならない。こうした未熟な隊員でも何とか戦果が上げられるような戦法を考えたとき、第一航空艦司令長官だった大西滝治郎中将の達した結論が、「もはや体当たりしか方法がない」という「特攻戦術」だったわけだ。
しかしそうした苦しい台所事情は隠されて、あるいは隠すために、捨て身の特攻戦術は、日本軍人精神の優秀さを示すものとして宣伝された。こうして特攻隊員に負けずにお国のために命を投げ出して戦うべしという「一億総特攻」の宣伝が日本全土に行き渡った。そうなると、特攻隊に要求されるのは、もはや戦果だけではなくなった。お国のために潔く死んでいく姿が何よりも大切になる。
特攻隊とともに何度も出撃し、自らも特攻隊としての経歴をもつことになる当時海軍少尉の角田和男さんは、「戦果はどうでもよい。死ぬことが大切なのだ」と上官が特攻隊員に訓示する現場を見ている。こうした風潮を、特別攻撃隊生みの親の大西中将はどう見ていたのだろうか。
角田和男さんは「修羅の翼」のなかで、大西滝治郎中将の真意は別にあったのではないかと書いている。特攻の意味は戦争を終わらせ、アメリカと講和を進めるためだというのだ。戦意高揚のためではなく、その真意は「終戦工作」だというのである。
これは通説とは180度違っていて、俄には信じがたい説である。しかし、読み返しているうちに、こうした仮説に立つと、レイテ沖海戦をはじめ、日本海軍の行った様々な作戦の謎が解けそうな気がして、これもまた考慮に値する説だと思うようになった。その理由を明日の日記に書いてみよう。
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