橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
レイテ島はセブ島のとなりにある。セブに滞在中、私はゼブ基地から飛び立った特攻機や、レイテ島で喫した日本海軍の敗北についてしばしば考えた。日本に帰ってからも、昭和の歴史 太平洋戦争」(小学館)を読み返しながら、いろいろと考えた。
レイテ戦や特攻についてインターネットで検索したり、新たに何冊かの本を手にしたが、なかでも印象に残っているのは、私が参加しているメーリングリスト「戦争を語り継ぐ」の管理責任者である西羽さんから教示していただいた「修羅の翼 零戦特攻隊員の真情」(光文社)である。
http://denkaisui.com/tubuyaki2/index618.html
これは元海軍中尉で特攻隊員だった角田和男さんの体験記である。角田さんは昭和9年15歳で予科練習生として入隊。中国戦線、ラバウル、硫黄島、フィリピン、台湾で熾烈な戦いを経験した。フィリピンのセブ基地にも滞在し、とくに特攻隊の直掩任務(現場まで護衛し、戦果を報告する任務)にあたり、多くの隊員の最期を見届けた。そして自らも特攻隊員となったが奇跡的に生き残り、台湾で敗戦を迎えている。
この「修羅の翼」には特攻隊の生みの親である大西中将の副官であった門司氏も序文を寄せてる。そこでも触れられているが、この本の大きな特徴は、死んでいった夥しい戦友たち一人一人の日常にまでたちいたった細かい記述であろう。作者自身が自分の目で見たこと、耳で聞いたこと、肌で感じたことをありのまま語ることで、死んでいった戦友達への鎮魂になりえている。
たとえば、ある特攻隊員が役目を果たさず、爆弾だけ投下して帰ってきた。上官に叱られた彼は、今死ぬと2階級特進しても少尉になれない。あとしばらくで昇進があるので、それから死んで将校になりたい。それが自分が故郷の父母に尽くせるせめてもの孝養だという。これに対して、上官も口をつぐんだという。こういう何気ないところに私はリアリティを感じた。
また、桟橋に特攻せよという命令に対して、「それはできない。せめて敵の巡洋艦にでもあたらせてくれ」という隊員にたいし、上官は「戦果はどうでもよい。死ぬことが大切なのだ」と諭すところがある。これには驚いた。
1944年10月20日、マッカーサー率いるアメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。日本軍はこれを叩くべく作戦を発動していた。どんな作戦かというと、連合艦隊のうちの小沢艦隊が囮となって敵艦隊を北に吊り上げ、そのさなかに栗田健男提督の主力艦隊がボルネオを発してレイテ北側の海峡を抜け、レイテ湾に突入するという作戦だった。作戦に参加した日本海軍の構成を「日本の歴史」から引用しよう。
(1)栗田艦隊 大和・武蔵以下戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15 (2)小沢艦隊 瑞鶴、瑞鳳など空母4、日向、伊瀬の航空戦艦2、軽巡3、駆逐艦8 (3)西村艦隊 山城、扶桑の戦艦2、重巡1,駆逐艦4 (4)志摩艦隊 重巡2,軽巡1、駆逐艦4
この栗田艦隊突入を助けるため、神風特攻隊が編成された。ゼロ戦に250キロ爆弾を搭載して、体当たりで空母に突撃するというものだった。これは海軍航空部隊の司令官大西滝治郎中将の発案である。
このとき神風特攻隊はそれなりの戦果をあげている。わずか数時間の攻撃で、神風機3機がアメリカの護衛空母二艦の甲板を破り、さらに5機が空母に体当たりして炎上沈没させたという。
しかし全体的にみればレイテ沖開戦は日本軍の惨憺たる大敗北だった。沈没したものだけで、戦艦3,航空母艦4,重巡6,軽3,駆逐艦8,潜水艦6で合計30にものぼる。まさに壊滅的な打撃である。これにたいして、アメリカの被害は、小型空母1,護衛空母2,駆逐艦3、魚雷艇1,潜水艦1の8隻に過ぎない。
栗田艦隊の武蔵は一度も砲門をひらくことなく轟沈し、自慢の大和の巨砲も役に立たなかった。囮の小沢艦隊はハルゼー麾下の大艦隊を北に引きつけてチャンスを作ったが、栗田中将は反転を繰り返し、結局はレイテ湾に突入せず、みすみすレイテ湾に集結した敵の輸送船団敵に打撃を与える千載一遇のチャンスを逸した。
この結果、囮になって空母4隻とともに全滅した小沢艦隊はまったくの犬死になってしまった。それどころか、レイテに残された8万余の陸軍部隊が孤立し、7万9千人が戦死するという悲惨な結末を余儀なくされた。さらに陸軍部隊の玉砕は民間人をまきこみフイリピン諸島全体に及んでいく。これは日本海軍の大失態だが、なぜだかこのことで栗田中将はじめ誰も責任を追及されなかった。またこの決定的な敗戦は国民に知らされることもなかった。
レイテ海戦については、ミッドウェー海戦とともに多数の本で取り上げられたいるが、ほとんどの著者が栗田艦隊の反転については疑問を投げかけている。栗田は戦後になっても沈黙を守り、他の関係者も口を閉ざす中で、これはいまだに歴史の謎であるが、「日本の歴史」は栗田艦隊反転の理由を一応次の二つに整理している。
(1)出撃した4つの日本艦隊とのあいだの無線連絡がきわめて悪く、不正確な情報や誤報に悩まされたこと。
(2)栗田長官らが敵の輸送船団と主力艦隊のどちらを撃滅目標にするかについて、明確な認識を欠いていたこと。
とくに深刻なのは(2)であろう。栗田艦隊は出撃するときから、レイテ湾突入に懐疑的だった。敵の主力艦隊と一戦交えたいという気持が強く、「本件は最早能否を超越し国運を賭して断行せられるもの」(大本営)という意志のもとに作戦本部が立案したこの作戦に終始否定的で、中央と意志疎通を欠き、溝が埋まらないまま出撃している。
これが(1)の無線連絡の不備の中で、「敵主力艦隊現れる」という誤報の電報に惑わされ、任務を放棄して反転することに繋がったと見るのが妥当だろう。海軍中枢部のこの作戦に賭ける思いを、栗田とその幕僚はついに共有できなかかったわけだ。
この敗戦によって、日本海軍はもはやほとんど手足をもがれた無力な存在となった。これを境にアメリカは日本海周辺の制海権と制空権を握り、やがてサイパン島を発したB29が日本本土襲撃を始め、東京も11月24日には初空襲に見舞われている。
こうした中で、特攻攻撃は継続された。そしてやがて「一億総特攻」という言葉まで生み出されていく。いったい特攻とは何であったのか。特攻隊の上官が口にしたという「戦果はどうでもよい。死ぬことが大切なのだ」という意味は何か。これについて、角田和男さんは、「修羅の翼」のなかで貴重な証言をしている。明日の日記で紹介しよう。
|