橋本裕の日記
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マニラからセブまで、正味1時間ほどの空の旅だった。往きも帰りも私は窓ぎわの席で、顔を窓ガラスに寄せてフイリピンの空と海を眺めていた。往きは視力に障害があり、思うように見えなかったが、それでも片目を交互に閉じながら、休み休み眺めていた。
青い空に白い入道雲の形がくっきりしていた。飛行機はときどきその雲に突入する。そうすると窓の外は乳白色になる。そして飛行機が気流のため揺れる。空を飛んでいるのだという実感が迫ってきた。
ルソン島やミンダナオ島、レイテ島、セブ島、マクタン島、そのほか無数の島々の近くや上を飛行機で飛びながら、私は日本軍と連合国軍がこの地で激戦を繰り返していた60数年前のことを考えた。
この空を零戦が飛び、アメリカの戦闘機が飛び交っていたのだろう。そんなことを考えていると、今にも入道雲の陰から戦闘機が飛びだしてきそうな気がする。そして私自身特攻隊の一員になったような気持で、緑の島影や青い海を見つめていた。
セブ市に滞在中、ディプロマットホテルのロビーで、私は「セブ島通信」というセブ日本人会が発行する会報を見た。何気なく手にとって読んでいるうちに、松本重樹という方の「わたくし的八月のレクイエム」という文章に出あった。少し引用しよう。
<神風特攻隊は、二流の将軍マッカーサー率いる連合軍がセブ島の隣りレイテ島に上陸、それに対して、日本軍が劣勢を挽回しようとして企てた外道の戦法で、その心情的な面はともかく、勇名の割に効果は少なく、前途有為な若者を無駄死にさせた、無謀な作戦の一つである。
昭和19年10月20日、ルソン島中部マバラカット基地を出撃した、関大尉の敷島隊を神風攻撃の嚆矢とする記述は多いが、実は同日にこのセブ基地と、ミンダナオ島ダバオ基地からも特攻隊が飛び立っている。
この日は天候不順のため全隊の攻撃はならず帰還しているが、セブ基地から出た大和隊の加納中尉が単機レイテ湾に突入、戦果不明の特攻戦士第一号になった。
同月25日、ようやく敷島隊の特攻が成功、関大尉異か6名が全軍布告の栄誉に浴すが、事実は違う。今ではどちらが早いの遅いのといっても意味はないが、同日ダバオ基地から発進した朝日隊異か三隊が、この敷島隊より早く最初の体当たりに成功している。
セブ基地からの出撃は翌年1月3日、第30金剛隊の高島・井野中尉を最後とし、1月9日、ルソン島北部ツゲガラオ基地からの第24、25,26金剛隊の攻撃をもってフイリピンにおける神風特攻作戦は終焉を迎え、延べ202機、256人が散華した>
松本さんの叔父さんはルソン島で終戦間近の8月1日に戦死したという。「金鵄勲章」をもらった歴戦の勇士で、松本さんが調べに訪れた靖国神社では叔父のことを誉め讃えられたが、「アジアの解放戦争などと、過ちを正当化する所からでは、嬉しくもなく、ありがたくもなかった」と書いている。
今年の8月15日にはセブで「The Great Raid」という映画が封切られ、人気を呼んだという。日本軍の捕虜収容所から米兵を救出した事実に基づいた映画で、日本軍の暴虐ぶりが強烈に描かれていたという。
松本さんはセブの映画館で見ていて思わず眼を伏せそうになったが、「事実は事実として後世に伝えなければならない」と思ったという。そしてアメリカ盲従の日本政府にたいして、「性懲りもなくいつか来た道を歩んでいる」と危惧してみえる。
この松本さんの文章を読んでいたせいか、帰りの飛行機から見たフイリピンの海の青さや島の緑はよけいに印象的だった。ここに多くの人々が非業の死をとげ、今も眠っていることだろう。そう思って、胸のうちでそっと手をあわせた。鎮魂の意味も込めて、さだまさしの「防人の詩」から、歌詞をひいておこう。
おしえてください この世に 生きとし生けるものの すべての生命に 限りがあるのならば 海は死にますか 山は死にますか 風はどうですか 空もそうですか おしえてください
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