橋本裕の日記
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| 2005年10月20日(木) |
ジャーナリズムの惨状 |
小泉首相が17日に靖国神社を参拝した。続いて100人近くの国会議員が参拝したという。これについて、新聞各紙は「産経」を除いていずれも批判的な社説を出している。韓国や中国もすかさず反応した。町村外相の中国訪問もとりやめになった。
日本政府は「理解を求めていく」というが、これは順序が違う。理解を求めてから参拝するのが筋であろう。もっとも、これまでの経緯から見て、理解が得られるとは思えない。小泉首相もそのことが分かっているから、抜き打ちで強行したのだろう。
靖国神社は過去の戦争を賛美し、戦死者を英雄として祭り上げている。そうした宗教的・政治的な施設へ、首相が参拝すること自体がおかしい。新聞各紙の靖国参拝批判にはこの観点が稀薄である。したがってほんとうの批判になっていない。おそらくそこまでラジカルに批判できない事情があったのだろう。
朝日新聞の世論調査によると、小泉首相の靖国参拝を「よかった」と評価する人が42パーセントで、反対の41パーセントをわずかに上回っている。女性に限ると、「よかった」が46パーセントで、反対の36パーセントをかなり上まわっている。小泉人気のなせるわざともいえるが、私は問題の本質を見過ごし、真実を伝えようとしないジャーナリズムの批判精神の衰弱も大きいと思う。
近隣諸国との友好を犠牲にしてまでなぜこうしたことを強行するのだろうか。小泉首相の考えはわからない。(おおよその推察はできるが)。しかし、これを是とする人たちの気持ちはわかる。外部の批判をものとせず我が道をゆく小泉首相は颯爽としていて、たのもしく見える。こうした毅然とした男性的な指導者を国民は待望している。
今後こうしたナショナリズムがさらに増幅され、いさましい世論が幅をきかせることになりそうだ。42パーセントが60パーセントになれば、政治家はもとよりジャーナリズムも自分の立場をさらに軌道修正するだろう。戦前軍国主義に反対していた大新聞が、やがて軍部賛美に傾いていったのと同じシナリオである。
さきの選挙で大勝した結果、小泉首相は政権基盤を盤石なものにした。やがて憲法が改正され、自衛隊が自衛軍とよばれることになるだろう。そうすると世界的に軍拡競争がはじまり、日本国の周辺でも紛争や戦争がはじまる。その先に待ちかまえているのが、どんな世界かほんの僅かでも想像力を働かせてみてほしい。
さて、小泉首相の独裁的な権力を前にして、かろうじて当選した郵政民営化法案に反対した議員たちも、選挙後はたちまち自説をまげて小泉法案賛成にまわった。その弁解の言葉が「民意に従う」ということだった。このことを報じる新聞やテレビの良識を欠いた論調にも私はあきれるしかなかった。
民主主義とはたんに「多数の意見に従うこと」ではない。ただ多数に従うというだけだったら、議会はいらない。ヒットラーが連発したように、国民投票をすればよいのである。そしてこれが実はファシズム(全体主義)の正体である。
ファシズムといえば、ヒトラーや日本の軍部独裁を思い出す人も多いだろう。そのイメージは一部の独裁者が大勢の民衆を権力で押さえつける姿である。ところがこれはファシズムの本当の姿ではない。ファシズムとは大多数の民衆が少数者の人権を蹂躙することである。つまり多数決の論理は、民主主義の論理よりもファシズムの論理として働く。
これに対して、「民衆の一人一人の意見を大切にすること」が民主主義の精神である。まず第一に議会は「少数者の意見を聞く場所」である。そしてそのうえで、少数意見を吟味し、多数意見のあやうさを克服することが大切である。こうしたプロセスをとおして、民主主義がまがりなりに実現される。
今回野田聖子議員は当選後の記者会見で、「法案反対という政治的立場は完敗しました」と述べた。しかし、これはおかしい。彼女は少なくとも地元では勝利した。国会ではたとえ小数派になっても、彼女を支持してくれた人々の負託に答えるのが政治家の責任である。
野田聖子をはじめてして、堀内光雄氏ら11名の無所属議員の人たちは「小泉郵政法案反対」を選挙区の有権者に訴え当選した。当選した直後、支持してくれた人々の民意を踏みにじることが、「民意に従う」行為だとはとてもいえない。これでは自己の保身のためだといわれてもしかたがない。政治家として、一人の人間として、とても恥ずかしいことである。
この点、初心を貫いている国民新党の綿貫民輔、亀井静香、亀井久興、新党日本の滝実、無所属の野呂田芳成、平沼赳夫の6衆議院議員および荒井広幸、長谷川憲正両参議院議員はまだ見所がある。考えてみればこれがあたりまえなのだが、こうした良識が通用しないのが永田村の現状らしい。
さて、私たちはこうした時代の中にあって、どうしたらよいのだろうか。答えは少し皮肉なことだが、ある意味で小泉流に似ている。自分の正しいと思うことを主張し、たとえそれが少数意見であっても気落ちしないことだ。小さな灯火でもよいから、掲げ続けよう。その明かりで自分の道を照らしながら歩いていこう。
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