橋本裕の日記
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2005年10月19日(水) 智慧のある老婆の話

 幼い頃、よく祖母に連れられて、お寺の講話をききに行った。家から歩いて15分のところに東本願寺があり、そこの大きな本堂で講話があった。

 当時はテレビもない時代だったから、お寺で講話を聴くことも楽しみの一つだった。お年寄りに混じって、私のような5,6歳の子供が講話を聴くのは珍しかったと思うが、私のお目当てはそのときいただけるお菓子だった。

 しかし、お菓子はすぐに食べてしまう。そうするといやでも長い講話をきかなければならない。本堂の仏様を見たり、天井を見上げたり、そして自分の想像の世界に遊んだりと、いろいろ気を紛らわせていたが、お坊さんの話も私の心に届いてきた。

 お坊さんの話は仏教の話だが、なにしろ相手が老婆やお菓子目当ての子供たちだから、やさしくかみ砕いて、面白い冗談を交えながらのお話だった。つまり落語のようなもので、子供でも聴いていてわからないことではない。

 そのとき聞いた話で、覚えているものがある。たとえば、お金を落とした老婆の話だ。ある老婆がお札を往来に落としてしまった。家に帰ってから気付いた老婆は暗い気持になって家人にあたりちらし、ますます心が荒んでいった。

 ところが別の老婆もお金を落としたが、彼女は清々しい笑顔だった。彼女は落としたお金が別の人に拾われるところを想像し、拾った人の喜ぶ顔を想像して、こんなふうに考えたからである。

「きっと私より貧しい人がひろってくれただろう。そうすればお金も私の手元にあるより値打ちがあることになる。落としたお金は潔く仏様にさしあげたと思うことにしよう。今日は思いがけずに善行ができてうれしいことだ。心におおきな財産をいただいた」

 彼女はお金を落として、かえって心が豊かになり、晴れ晴れとした。こころの持ち方、ものの考え方で、同じできごとが災いにもなれば、幸せの種にもなる。信心をするとそうした知恵がわいてきて、どんなことも心にしあわせをもたらしてくれるという話だった。

 それから50年近く生きて生きて、私は何度もお金をなくしたり、物をなくしたが、そのたびに、幼い頃に聴いたこの話を思い浮かべた。そして「仏様への喜捨」だと考えた賢明な老婆に学ぼうとした。そうすると不思議と、心が晴れ晴れとした。「智慧のある老婆」の話は、子供心にまで届いたとてもありがたい話だった。


橋本裕 |MAILHomePage

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