橋本裕の日記
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この世が無常であること、すなわち「色即是空」を説いた仏教者はたくさんいる。法然や親鸞、道元などはその偉大な代表者だ。しかし、「空即是色」を力強く説いた仏教者は少ない。私は一遍上人はその先覚者であり、西行や芭蕉、良寛は「空即是色」の達人ではないかと思っている。
「色即是空」という言葉は、般若心経に出てくるが、「この世に生じるすべての出来事は、お互いに関連しあって起こっていて、そのもの自体には永遠に変わらない実体はない」という意味だ。たとえていえば、風によって水面にできるさざ波のようなもの。たまゆらそこに存在するが、やがて消えてなくなる。森羅万象をこのように、水の表面に生じるさざ波や泡沫のようなものとしてとらえるのが「空」の思想だ。
平家物語の「驕れる者も久しからず」という「諸行無常」の考え方もここから出てきた。こうした考え方を体系的に展開したのは、2世紀頃に活躍したインドの龍樹(ナガールジュナ)という人である。私は読んだことがないが、彼の書いた「中論」という本に詳しくかいてあるそうだ。
釈尊が死んだ後、教団の内部は二つの派に別れた。ひとつは今日小乗仏教といわれる教壇のエリート集団に属するひとたちで、もう一つは今日大乗仏教といわれる在家を中心とした信者の集団だ。後者の大乗仏教派の人たちが作りだし、拠り所にしたのが「般若経」であり、そこに説かれている「空」の思想だった。龍樹はこれを「縁起」「無我」という立場から理論的に体系づけた。
森羅万象のなかには人間も含まれる。デカルトは「我思う、故に我あり」という名言を吐き、近代科学と哲学の父と呼ばれているが、「空」の考え方に立てば、「我」を実体とみたデカルトの哲学は誤りだ。自己が他者から独立して存在するというのは幻想に過ぎない。
自己が存在しないとすれば、我執もおこりようがない。我執が生じなければ、偏見や妄想もなくなり、人生の苦しみもなくなる。こうして人間はあらゆる幻想や欲望から解放される。これが大乗仏教でいう悟り(無心)だ。
しかし、般若心経では「色即是空」のあとに「空即是色」と続く。一旦否定された「色」が「空」を通り抜けて再び蘇る。たとえば兼好法師は「徒然草」のなかで「世はさだめなきこそ、いみじけれ」(世は無常だが、無常なるが故に面白い)と書いている。同様のことを、ガリレオも「天文対話」で次のように書いている。
<私は大地はたえずさまざまな変遷や変化や生成などがあるからこそ、高貴でありみごとだと考えています。・・・不滅性や不変性といったものを称揚する人たちは、かみ砕いて言うなら、いつまでも生きつづけたいという願望や、いつかは死ぬという恐怖のためにそう言っているのだと思います>
芥川龍之介や川端康成が「末期の眼」ということを書いているが、死を前にして自我が滅び去ったとき、人生の森羅万象がことのほか美しく見えてくるわけだ。それは我執という妄念のさざ波で曇っていた心の表面が静かになり、明鏡止水のようになって、そこに人生の実相がありありと写し出されるからだ。死を媒介にして見えてくる美しいこの世のありようが、すなわち「空即是色」だと言ってもよい。
龍樹は「空」というのは単なる「虚無」ではないと説いている。それは「有」と「無」の間にあるものつまり「中」だ。そしてこの「中である空」からふたたびさまざまな現象が生み出されてくるわけだ。こううした大乗仏教の考え方が「中観」であり、我々はそれを「空の思想」という。
龍樹の空の思想は、ニーチェの思想に非常に近い。ニーチェも又「神は死んだ」と宣言し、「虚無」からの創造を志した。私は10年ほど前に「人間を守るもの」を書いて、ハイデガーの思想も加味しながら、「空即是色」をこうした観点から考察したことがある。
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/ninngen.htm
(補足1) 帰納と演繹
科学の分野では、個々の現象から一般法則を導くことを「帰納」という。たとえばニュートンは個々の物体の運動を観察して「運動の法則」を導いた。
ここで現象を「色」、法則を「空」と考えると、「色即是空」ということになる。科学の分野では、さらにこの法則を用いて、新しい発見をしたり発明や創造をしたりする。これが「演繹」とよばれるものだが、「空即是色」がこれにあたる。
このように、仏教の「色即是空、空即是色」は「帰納と演繹」という関係で捕らえることもできる。私たちはただ「空」という悟りを手に入れるだけではなく、そこに安住しないで、その悟りを活用して、実りある人生を生きなければならない。
小乗仏教は「色即是空」で完結した世界だ。大乗仏教はこれを批判した。僧侶はたんなる悟り澄ました覚者であってはならず、ツァラトゥストラが山を下りたように、市井にあって、衆生を済度することが大切なわけだ。こうした実践的な慈悲の精神が「空即是色」にこめられている。
(補足2) 場の理論
ニュートンは光りを粒子だと考えていた。実体をもつ粒子が飛び交い、相互作用をしていると考えていた。これにたいして、現代物理学は光りを「波動」だととらえている。つまり「光子」という実体をもった物質があるのではなく、それを空間のなかにつくり出される波動だと考える。
実は光子だけではなく、電子もその他の素粒子も、すべて「波動」であるというのが現代物理学の「場の量子論」考え方だ。こうした波を生み出す空間を「場」と呼んでいる。これが仏教でいう「空」に相当する。
またアインシュタインは物質はすべて空間の歪みであり、この歪みの伝播が運動だと考えた。これが有名な相対性理論だ。釈迦はすべての現象の背後に、「縁起の法則」があり、これによって森羅万象が生起すると考えたが、現代物理学の二本柱である「場の理論」と「相対性理論」はこうした仏教の「空」の考え方と非常によく一致している。
(補足3) 0の発見
数学で大切なのは「0」であり、「0」が発見されて、数学は大いに発展した。そして「0」を発見したのがインドの数学者だった。大乗仏教による「空」の思想も、「0」の発見とほとんど時を同じくしている。両者ともサンスクリットの原語は sunya であり、欠如という意味だ。
しかし数字の「0」が単なる「欠如」ではないように、「空」もまた単なる「欠如」ではない。むしろこの「欠如」があって、あらゆるものが生み出されるわけだ。その意味で、「0」も「空」も創造の母胎だといえる。
(補足4) 基本姿勢
私は卓球やテニスの顧問をしていたが、スポーツにおいてまずもって大切なのは「基本姿勢」である。この基本姿勢ができて、はじめて左右、前後への軽快なフットワークが可能になるからだ。
ここで基本姿勢を「0」で表そう。そうするとフットワークの練習では、「0−右−0−左−0−前−0−後−0」という具合に、必ず「0」に戻す。決して「右−左−前−後」ではない。こうした「基本姿勢」を堅持することの大切さは剣道や柔道でも同じだ。運動の熟練者かどうかは、基本姿勢を見ただけでわかる。
人間の心にも「基本姿勢」がある。それは思いこみや雑念を取り除いた静かな心だ。こうした心の状態を古人は「明鏡止水」などと言い表してきた。それは単なる「欠如」ではなく、自由闊達で伸び伸びとした心のありかたである。
正しい判断をし、正しい行動をするためには、こうした心の原点にそのつど立ち戻らなくてはならない。そのために心をクリアして、清々しい「0」の状態にしなければならない。座禅を組んだり、瞑想をしたりするのも、心の基本姿勢を正すためだと考えられる。
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