橋本裕の日記
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私の職場に熱心な非常勤講師の先生がいる。とても教育熱心で、陽気で明るく、生徒の受けもよい。部活の試合があると、生徒に「応援に来てね」といわれて、顧問でもないのに、自腹を切って応援にかけつける。
彼は私の学校だけではなく、他の学校にも非常勤講師をかけもちしていて、かなり忙しそうである。そして、毎年教員試験を受けるが、なかなか合格しない。今年も駄目だったようだ。職員室の黒板に、「いろいろ応援していただきましたが、今年も二次で落ちました。また来年、がんばります」と結果報告が書いてあった。
私自身も教員採用試験では苦労をしている。愛知県の物理の教員の倍率は10倍を超えていた。愛知県だけではなく、千葉県や神奈川県も受けてみたが、いずれも狭き門で、軒並み不合格だった。
物理の教員になるのは至難のことだが、数学科は採用人数が多いので、まだ倍率も4倍ちょっとだった。こうしたことは知っていたので、私は大学院に籍を置きながら学部の授業に出席し、学生達と一緒に試験も受けて、数学科の教員資格を取得した。翌年は数学で挑戦するしかないと思った。
そして1年間、愛知県の県立高校で数学の非常勤講師をした。授業が終わってからも生徒の質問を受けたり、授業の合間に校庭の石拾いをしたり、そうしたことで実績をつくり、実力と熱意を校長や教頭、主任の先生方に認めてもらうべく献身した。
そのせいで学校を出ると、もうくたくただった。金山駅で国鉄から地下鉄に乗り換えるとき、ストレス発散のためパチンコをした。そうすると非常勤講師の収入のかなりが消えてしまった。そのため食を切りつめ、耐乏生活が身についた。
採用試験を前にして、教頭や教科主任の家を贈答品をかかえて回った。校長の家には福井から両親を呼んで、一緒に「どうかよろしくお願いします」と頭を下げた。事前に福井から豪勢な越前蟹を校長の自宅に送っておいた。こうしたことは私の主義に反することだが、就職のためにはしかたがないと割り切った。
教員試験に合格したとき、同じく教員試験を受けて不合格だった大学院の先輩のひとりが、「君はいいね。才能もあるし、いろいろ恵まれているから」と言った。「そうでもないですよ。いろいろたいへんでした」と私は答えた。努力の内容について口を閉ざしたのは、私にもプライドがあったからだろう。
私の学校に勤める非常勤の青年は、もっとほがらかで、「ああ、もう絶望だ」とか職員室で声を上げて、生徒や他の先生に慰められている。ほんとうに必死に頑張っている様子が、全身全霊で伝わってくる。来年こそはぜひ合格して欲しいと、心の底から応援したくなる。
アヒルはのんびりと湖面を泳いでいるように見えても、水面下ではせわしなく足を動かしているのだという。私は涼しい顔をしながら、水面下では随分あがいていた。人の見えないところでは、ずいぶん努力もしてきた。「アヒルの水掻き」とはよく言ったものだ。こういう話を、娘達に話したが、そのときはあえて「白鳥の水掻き」と言ったような気がする。
(参考)橋本裕自伝「就職まで」 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/zidenn4.htm
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