橋本裕の日記
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一昨日、いつもより早く家を出て、名古屋市博物館で開催中の「円空仏」を見てから、学校にいった。円空(1632〜1695)は江戸時代初期から中期に活躍した放浪の仏師だが、荒削りで独特な陰翳を持つ木彫りの仏像や神像を多く作ったことで有名である。
博物館には北海道から奈良県まで、各地に残る円空仏が何十体と並んでいた。円空仏だけではなく、手紙や経典の書写、仏画なども多く展示され、円空という人の大きさを多面的に体験し、彼の芸術の豊かな奥行きを堪能した。
円空が生まれたのは岐阜県の羽島市だという。私の住んでいる一宮市に近い。羽島を中心に岐阜県や愛知県のあちこちの寺にたくさんの円空仏が残っている。私も寺を訪れて円空仏の実物を何体か見たことがあるが、これほどたくさんの円空仏にであったのははじめてである。
円空は生涯に十数万体もの仏像や神像を彫ったといわれる。その多くは失われたが、それでも5000体あまりが残っている。円空がこれほどまで彫り続けたのは、西行が和歌で行った衆生済度の道を、円空は仏像を創ることで行ったのだろう。それにしても30歳代で北海道にまで旅をし、厳しい修行をしながら一心に彫り続けたその不屈の意志は桁外れのものだ。
円空仏を初期のものから晩年までみていくと、後期になるほどその表現が簡潔になり、造形が大胆で自由になっている。そしてあるときから、あの彫りの深い独特な微笑が現れる。そこに底知れず深い世界が立ち現れ、慈悲の精神の美しさに涙ぐみたくなる。
梅原猛さんは「弥生人に征服された縄文人。円空は、そんな反逆精神をどこかに秘めていたような気がする」というが、私も円空仏を眺めながら、縄文時代の土偶を思い浮かべた。東北地方、北海道を旅し、異境の地に触れた体験が、彼の生涯を決定づけたのではないか。そう思わせる独特な神秘性と豊饒な生命力が彼の彫像に漲っている。
あいかわらずものが二重に見えるという障害が続いていて、最初は円空仏を見るのも苦しかったが、そのうちにそうした視覚障害を忘れるほど、仏像に見入っていた。そして不思議なことに、博物館を出た後、障害が少し軽くなっていた。これも円空仏の御利益かも知れない。博物館を出て、近くの喫茶店でおいしいコーヒーをいただいた。
−−−− 円空 (資料) −−−− 1632‐95(寛永9‐元禄8) 江戸初期の遊行造像僧。美濃国(岐阜県羽島市上中町)の生れ。若くして出家、尾張国(愛知県)師勝村の高田寺で金剛・胎蔵両部の密法を受け、諸国遊行の旅にでる。1664年(寛文4)ころまで美濃地方にいて名古屋荒子観音寺などで造像,65年蝦夷(えぞ)地に渡る。74年(延宝2)には志摩半島、その後は美濃・飛騨地方に入り、袈裟山千光寺や山間僻地(へきち)に多くの仏像をのこす。
89年(元禄2)には伊吹山、日光などに遊行、翌90年ふたたび美濃・飛騨地方にもどって晩年の円熟した彫像を刻む。生涯、東日本を遊行し、造像活動をつづけた。円空の没年は岐阜県関市の弥勒寺にある墓碑銘から明らかであり,生年については不明であったが、上野国(群馬県)一宮の貫前(ぬきさき)神社旧蔵の写経の断簡に「壬申生美濃国円空(花押)」とあることから、1632年の生れであることが判明した。
円空は12万体の造像を発願して,多くの木彫仏を特異な彫法で刻んだ。現存作だけでも5000体を数える。丸木の原材をいくつかに割り,割った面を巧みに生かして、そこに岩肌のような面(プラン)の構成を生み、正面性を強調した。その「鉈(なた)ばつり」といわれる荒彫り彫法の生むバイタルな表出は、現代造形の根底を刺激して大いに注目された。
平凡社「世界大百科事典」 丸山 尚一 http://www.hiyama.or.jp/enku/
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