橋本裕の日記
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2005年08月27日(土) 国家責任と自己責任


「自己責任」というのは、さまざまな問題を自分の問題として引き受け、その責任を果たすとうことである。個人には個人の「自己責任」があり、国家には国家の「自己責任」(国家責任)がある。

 民主党が選挙の争点にしている「年金問題」にしても、すべての国民に最低限度の生活を保障するのは国家責任である。これを果たすために、国は60歳以上の国民に最低生活保障年金を一律に支給することにしてはどうだろうか。

 その額はこの社会で生活できる最低限で、現在の日本ならたとえば共産党が主張するように月額5万円でよい。これに必要な12兆円は国庫負担にする。財源は行政の合理化による経費節減に加えて、大量に発生している消費税や法人税などの脱税分をあてるのが妥当だろう。

 これまで年金を払ってきた人は、60歳になったら一括してその分を本人に返却する。あとは自由加入の個人年金をつくり、将来に不安を覚える人はこれに加入すればよい。これは基本的に民間にまかせても構わない。

 国はこのように自分の責任をしっかり果たしてから、国民にも「自己責任」を求めるべきだ。これなら国家責任と個人の責任の境界がはっきりして納得しやすいし、多くの人々が協力しようという気持になるだろう。

 ところが最近、為政者が自己責任を棚上げにして国民の自己責任を強調することが多くなった。これに影響されてか、私たちの間でも、他者の行動を批判するために、相手に対して「自己責任」を問うことが多くなった。

 これが行きすぎると、「それは俺の責任ではない。悪いのはお前だ」という責任逃れになってしまう。責任を自分で引き受ける「自己責任」と、責任を他者に押しつける「自己責任」(他者責任)では、言葉は同じでも働きは反対である。

 他者を攻撃する「自己責任」は、実りあるものを残さない。なぜなら「彼らが悪い」ですべてが片づけられてしまうからだ。なぜそのようなことが起こったのか、その背景をさぐり、問題の本質に入っていくことがない。

 本来の「自己責任」という言葉には、他者とひとつの世界を共有しようという希望があふれている。そこから許しが生まれ、理解が生まれる。しかし、今日本で流行している攻撃的な「自己責任」にはその美しさがない。

 小泉政権の罪は、政治家が持つべき「言葉の重み」を破壊したことだ。責任逃れのために嘘を言い、質問をはぐらかす姿勢には、「自己責任」の誠実さが感じられない。国民の自己責任を問うためにも、首相はまず国家責任をはたしてほしい。


橋本裕 |MAILHomePage

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