橋本裕の日記
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2005年08月23日(火) 「文明病」にとりつかれた現代人

(今日の日記は、私が昨日、北さんの掲示板に書き込んだ文章のコピーです。ただし少しだけ、校正が施してあります)

 北さんは今ごろ北海道のどのあたりでしょうか。登別温泉、美瑛・富良野、旭山動物園などを見学して札幌あたりでしょうか。奥さんと娘さんを連れた3人旅、さぞかし楽しいでしょうね。家族の親睦をふかめ、北海道の自然の幸を大いに楽しんできてください。

 私の学校は今日から新学期です。まだまだ暑い盛りですが、定時制は全日制が文化祭をする9月に教室や施設が使えなくなるので、10日ほど早めに新学期がはじまります。そのかわり、9月に10日間ほど(実際は土日や休日があるので15日間ほど)秋休みがあります。今年はこれを利用して、フイリピンに英語の勉強に行きます。

 さて、北さんが8/10に雑記帳に書かれた<恐ろしい現代の「文明」観>について、今日はコメントしたいと思います。コメントが遅れたのは、この問題に私の関心が薄かったからでも、北さんの文章に価値を認めなかったためでもありません。

 そうではなく、この問題がとても重要に思われたからです。いつもながら北さんの本質的な問題提起には感心しています。これをしっかり論じるためには、それなりの心の準備が必要でした。いまだ思索が充分に熟したわけではないのですが、とりあえず現在私が考えているあたりを書いてみたいと思います。

<私は、文明を文化の下位概念としてとらえるべきではないかと考えているのだ。私の考えでは、文化が最大の価値なのである>

 北さんのこの考え方に賛成です。一口で言えば、問題の本質はここにあるのだと考えます。現代のさまざまな問題は、本来下位概念であるべき文明が、上位概念である文化を浸食し、これを破壊しているところに発生しています。そうした意味で、北さんの次の結びの文章も、おおむね賛成です。

<風土性に根付いた民族の文化こそ第一に大切にされるべきものである。その異質性こそ第一に尊重されるべきものである。その中に、どうしても人類の共存を妨げるものがあったとすれば、それは「やむを得ず」文明化によって排除されなければならないと考えるべきなのである>

 おおむねと書いたのは、私は文化というものは風土性や民族性に立脚しつつも、それだけではない普遍的なひろがりを持っていると考えるからです。同様に、文明が普遍であり、文化が特殊であるという考え方にもいささか疑問をもっています。

 文明が下位概念だというのは、文明は人間が生きる基本である生活のインフラだという意味です。したがって文明が追い求めるのは、生産性や効率性ということです。石器文明、青銅器文明、稲作文明などさまざまな文明があり、その生産性の優劣によって興亡を繰り返してきました。

 こうした生産性の基盤のうえに、その上位構造である文化がかたち作られます。文明がその優劣を「生産性」や「効率」に求めるのに対して、文化はその価値を「幸福」という精神的な価値のなかにもとめます。

 生産性というものが、貨幣という一次元の物差しで測れるのに対して、文化のゆたかさは私たちの心がそうであるように、多くの次元をもち、多様性に富んでいます。そこにはさまざまな幸福の形があり、よろこびのかたちがあります。こうした多様性のなかに調和を求めるのが文化というものの本性なのだと思います。

 こうした豊かで多様な文化の世界が、その下部構造である生産性という文明の尺度によって浸食され、やせ細りつつあるところに、「文明病」にとりつかれた現代人の、最大の不幸があるのではないかと思っています。

(参考サイト) http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/


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