橋本裕の日記
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2005年08月19日(金) 国債は国への投資

 国債の発行を前提としなければ国家の予算が組めないというのは問題である。そこで増税をしたり、無駄使いをなくして財政削減をはかろうとするわけだが、これが国内の消費を冷え込ませ、景気の足をひっぱり、さらなる税収の減少を招いてきた。

 デフレになれば、ますます銀行の不良債権がふくらむ。銀行の貸しはがしが横行し、中小企業が倒産する。失業が深刻化し、個人消費が冷え込むので、政府はふたたび巨額の財政出動しなければならない。こうした悪循環のなかで、国債の残高がますます膨らんできたわけだ。

 こうした悪循環をどうやって脱したらよいのか。私は国債が<赤字国債>つまり<国の借金>であるという固定観念から自由になることが必要ではないかと思っている。つまり、株式が企業への投資であるように、国債もまた国民の国家への<投資>だと考えるのである。

 国債とは国の借金には違いないが、見方を変えれば国の発行する株式だという捉え方もできる。企業が株を発行して資金をあつめ、事業をおこなうように、国という「企業」も国債という株式を発行して資金を調達し、経営をおこなう。

 企業がさまざまな財やサービスを提供して売り上げを稼ぐように、国もさまざまな財やサービスを提供してその代価として税金をとる。そして国は必要に応じて国債という<株式>を発行して資本金増やしていくわけだ。

 多くの国民がせっせと働いて貯金をした。これを郵便局に預けるということはつまり国に投資したということである。国はこのお金を使ってダムや道路を造り、学校や病院、老人施設など国の経済や福祉の基盤を作った。

 日本が戦後世界の奇跡と言われるまでに大きく発展したのはこのカラクリによるところが大きい。国民は700兆円ほど国に投資した見返りにその倍の1400兆円もの個人金融資産を得た。この他に、企業の所有する資産が600兆ほどあり、さらに国の隠し財産もかなりあるらしい。

 こう考えれば、国や地方の借金が多いからといって悲観的になることはない。それだけ国民が日本という国に投資したと考えればすむことだからだ。ものは考えようであるが、たとえ国債が投資だとしても、いやそれだからこそ、無駄な投資であっては困る。

 私はこれまで何回も新聞に投書し、むだなダムや施設を作るなと訴えてきた。道路公団はつぶして高速道は無料化せよといい、天下りはけしからんとくりかえしてきた。政・官・業の癒着した政治を変えなければならないと訴えた。私は今でもこれが構造改革の王道だと思っている。

 ただし私は財政投融資の制度には表だって異をとなえたことはなかった。アメリカは世界中の国に国債をかわせ、その資金で戦争をしている。これに比べて、憲法の平和主義に守られていた日本は、国債を自国の中でまかない、平和的な事業につかってきたからだ。

 アメリカの軍需産業にあたるのが、日本のゼネコンである。政・財・官の癒着は両国とも深刻だが、ひたすら民需にのみ投資してきた日本の財政投融資の方が平和的であったことは事実だ。この点は評価すべきだが、本来は国民のこの貴重な財産を、もっと有効につかうべきあったことはたしかだ。

 普通の会社であれば、株主総会がある。これによって、経営がきびしくチェックされるわけだ。このチェックがないと散漫経営になる恐れがある。

 国債の場合はどうか。国民は自分たちが投資した資金が適正に使われているかチェックできるだろうか。ここが問題の急所である。たとえば郵便局なり銀行なりに貯金したとしよう。そのお金が自分たちの知らない間に国債購入にあてられている。こうした中で、チェックができるわけがないのではないか。

 ところが、それが出来るのである。会社の株主総会にあたるのが、じつは国会である。財政投融資はここで審議され、国会で承認されなければならない。国会をとおして、私たち国民は自分たちが投資した資金が適正に運用されているか監視できる。

 借金は資本金だと考えればよいし、しかも国権の最高機関である国会がチェック機構になっているのだから、本来ならば財政投融資は問題がないはずだが、そうでなかったのは国会が、つまり政治家がさぼっていたからだ。日本の会社の株式総会が形式的だったのと同じ事である。どんな立派な制度があっても、これではいけない。

 じつは私も国債は借金である、悪であるとう立場で文章を書いてきた。この6年間、あるいはさらに20年さかのぼって自分の日記を読み返してみて、ほとんど訂正する必要を感じないのだが、ただひとつ例外が、国債に対する考え方だ。

 たしかに国債が借金だが、見方を変えれば借金ではなくなる。その理由をもう一度くりかえせば、国が借金をしているのがほとんど国民から(93パーセント)だからだ。いわば親が子供からお金をかりているようなもので、外からみれば借金にみえないわけだ。

 利息をはらっていても、これも国が国民に払っている限りは、自分で自分に払っているようなもので、国の損失ではない。こうした意味で、通常の借金とは性格が違っている。つまり国内経済で考えれば、富が国家から国民に移動しただけのことだ。しかも、国債を大量にもっているのが郵便局という国の機関だから、この理屈がますます通用する。

 この点、アメリカの国債はその大半を外国に依存しているので、これは本物の負債だと言える。日本も郵政を民営化すれば、国債が外資や外資の資本が大半を占める日本の銀行の手に握られる可能性が大きくなる。つまり、潜在的な借金が顕在化するわけだ。

 借金は資本金だと考えればよいと書いたが、これには前提がある。その資本金が国民の持ち物であり、しかも国民が国(会社)のことを思って今後も安定した株主でいてくれることである。

 もしこの前提が崩れたら、これは大変なことになる。国債が株式と同じように市場で売買されている以上、そして市場が株主主権主義者にいいように支配されはじめると、国に対してもこの論理が働く。株式を通して企業を支配するように、国債をとおして国を支配しようということがこれからは普通に行われることだろう。

 そうでなくても日本国の国債を大量に保有するファンドは、その本性上利益大一に考えるから、国債を売ってはるかに利益率の良い金融商品に投資することを考える。そうすれば国債は暴落するが、その前になんとか売り抜けようとするはずだ。

 こうしたことが、郵政民営化によって起こりうる。郵政民営化に賛成すると言うことは、このおそろしいことに荷担するということだということを、ぜひとも肝に銘じて欲しい。


橋本裕 |MAILHomePage

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