橋本裕の日記
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| 2005年08月16日(火) |
母から聞いた福井大空襲 |
福井空襲は昭和20年7月19日の夜10時頃はじまりました。B29爆撃機120機の編隊がまず市外周部に照明弾を投下し、徐々に中心に向って半径を狭めて行きました。
これによって市民は逃げ場をうしないました。約9,500発の焼夷弾が投下され、全市が猛火に襲われました。防空壕に避難していた人々は熱気で蒸焼きとなり、水を求め福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は折り重なって死んだそうです。
私の母は当時15歳の女学生でした。妹と母親と祖母の4人で福井市の花月町というところに住んでいました。警報がなったときいち早く防火頭巾を被り、妹や母、祖母を起こしましたが、母親はこのまま死んでもいいと言って押入に閉じこもってしまったそうです。
いくら説得しても出てこないので、母親を除く3人で家を出ましたが、やはり思い直して一人だけ家にもどり、無理やり母親の手を引いて外に飛び出しました。その時はもうあちこちから火の手があがっていたといいます。
雑踏なかで母親の姿を見失いましたが。とにかく降りかかる火の粉を払いながら、足羽川を目差して無我夢中で走ったといいます。すでに川には夥しい死体が浮いていましたが、その間に身を沈め、敵機と炎に責められながら、生きた心地もしなかったと言っていました。
幸い母親も祖母も妹も無事でしたが、家はあとかたもなく燃え尽きていました。この空襲で市内は一面の焼け野原となり、95%の市街が焼失したそうです。これは全国最大の被災率だといわれています。死者は約1,600人だそうです。母の一家4人全員が無事だったのは、奇跡的なことでした。
それから母は家族と別れて、郊外の親戚の家に寝泊まりし、そこから長い道のりを歩いて、動員された仕事先に通いました。通勤途中、B29に襲われて機銃照射を受けたこともあったと言います。
敗戦の日を迎えてほっとしたということでした。母の話を聞きながら、せめてもう一ヶ月早く戦争が早く終わっていたら、多くの人たちの命が救われ、母達もこんな恐ろしい体験をすることはなかったのにと残念でした。
日中戦争から終戦までの8年間で、日本人の戦没者は310万人だといわれています。ところが最後の1年間で、200万人もの人命が失われているのです。もう1年早く終わっていれば、東京、大阪、名古屋や、60以上の地方都市も焼け野原にならなくてすみました。沖縄、広島や長崎の惨劇もなかったのです。
これだけ犠牲者が増えたのは、政府が国民の幸せを第一に考えていなかったからだと思います。天皇家の安泰や国体維持のため、あるいは戦争責任者の保身、そうした一部の人々の利益のために、多くの国民の血がとめどなく流されました。また外国の人々にも夥しい死と、耐え難い痛苦を与えたのです。
戦争が終わって60年。私は戦後世代ですが、戦争のことは両親から聞きましたし、破壊された防空壕など、戦争の爪痕を実際に見てそだちました。今後、物質的に繁栄した日本のなかで、戦争のことは何も教えられないまま育ってきた世代が、どんな国や世界をつくっていくのか、将来に一抹の不安を感じます。
どうしたら平和が維持できるのか。戦争は避けられるのか。それは政治が大多数の国民のしあわせを実現するように努力することによってだと思います。何度もいうようですが、この原点を、政治家も私たちも見失っていけないと思います。
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