橋本裕の日記
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2005年08月12日(金) 利潤を生むしくみ

 旅の道連れに東京大学経済学部教授の岩井克人さんの「ヴェニスの商人の資本論」をよんだ。とても面白い本だった。この本の中心テーマは、利潤はどこから産まれるのかということである。

 お金を余分に儲けるにはどうしたらよいか。これはだれしも興味があるのではないだろうか。それでは、実際にどうしたら余分なお金、つまり利潤はつくりだせるのだろう。

 ここで誤解のないように言っておくが、働いて給料をもらう賃労働は利潤を生み出さない。そこには労働量にみあった賃金しか得られないわけだから、これは正当な報酬であり、利潤とはいわない。

 利潤を生み出すには、一つの方法しかない。つまり<安い物を高く売ること>である。もちろんこれは不正な取引によって金儲けすることであってはならない。

 騙すかだまされるかの競争世界では、一方の得は一方の損失だから、双方を合わせれば、利潤の合計は0になる。だからこれでは社会全体としては利潤を産みだしたとは言えない。

 そこで、安い物を高く売りつけて、しかもそれが全体の富の拡大、つまり利潤を生み出すようなまっとうな商売があるのか、疑問に思うだろう。

 もちろんこれが可能だから、アダム・スミスは「国富論」を書いたわけだ。またこの世の中が経済的に発展しているのである。それではいかにして利潤の創造は可能なのか。岩井さんの本から、その答えを抜き出すことにしよう。

<利潤は資本が二つの価値体系の間の差異を仲介することからつくり出される>

<差異が利潤を産む>という岩井さんの説を、ここで解説しておこう。これは重商資本主義でも産業資本主義でも、欧米流の金融資本主義でも成り立つ普遍的な法則だからだ。

 たとえば、金に価値をおく金国と、銀に価値をおく銀国があったとしよう。さて、ここにあるのは、<二つの価値体系の間の差異>である。利潤の法則に従えば、ここから利潤が得られるはずだ。頭の良い商人はすぐにその答えを見いだすだろう。

 つまり、金国にある銀を安く買い占め、それを銀国へ行って高く売るのである。さらに、銀国にある金を安く買い占め、金国へ行って高く売る。これで利ざやがかせげるわけだ。

 もちろん、この商売はいつまでも続くわけではない。金国の銀がなくらり、銀国の金がなくなればおしまいである。あるいは、金国に金が多量にもたらされば、それだけ金の値打ちがさがる。同様なことは銀についても言える。金国で金が下落し、銀の値段が上昇したら、銀を買う値打ちがなくなる。同様なことは銀国でも起こる。

 このような商売の仕方を重商資本主義という。たとえば日本から銀を輸出し、明から銅貨を輸入した勘合貿易がその例だ。銀の相場が高い中国と、銅の相場が高い日本という二つの遠隔地を仲介することで利潤が産まれる。

 遠隔地はなにも二つとは限らない。イギリスの商人達はアメリカから綿花を購入し、綿製品をアフリカに売りつけ、そのお金でアフリカ人の奴隷を買い、これをアメリカに売り付けた。いわゆる三角貿易である。

 これも一つには人間の値段がただのように安いアフリカと、労働力不足で人間の値段が相対的に高いアメリカの両者の<差異>を仲介して利潤が産まれている。

 重商主義からさらに進んだ産業資本主義の場合も、基本的な差異構造はかわらない。労働生産性が低い都会に住む人々を、安いお金で雇い、労働生産性の高い生産施設である工場の中で働かせる。そうすることで、資本家は利潤を生み出すわけだ。

 つまりアフリカが国内の貧民街になり、アメリカの綿花畑が紡績工場になったわけだ。同じ人間が工場の外と内側で価値に差がでてくる。この差が大きければ大きいほど利潤が産まれる。

 このように、産業資本主義はひとつの国のなかに<差異>を見いだすことになる。<資本>が発見したのは、生産手段をもたない<労働者階級>という貧しい人たちの群だった。ここから産業資本主義が生まれてきた。産業資本主義はその他様々な差異を内在的に再生産し、拡大することによって発展する。

 しかし、社会が成熟してくると、労働者の生活が向上し、内外での差がなくなってくる。そこで企業は技術革新を継続させて工場内の生産性を高めようとする。そして、これにも限界を感じると、自らを多国籍企業と化して、安い労働力市場をもとめて国外に工場を移転させるわけだ。だから、岩井さんはこう書いている。

<差異が利潤から生まれるものならば、差異は利潤によって死んでいく>

<資本主義とは、それゆえ、つねに新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めて行かなければならない>

<現代の資本主義においては、だれもが差異化への欲望をもち、それを満たしたがっている>

<資本主義とは、かってはそれぞれ孤立し、閉鎖されていた価値体系と価値体系を相互に対立させ、相互に関連させ、それらを新たな価値体系の中へと再編成してしまう社会的な力にほかならない>

 物理学の熱力学の法則によると、二つの物体があり、そこに温度差があるとき、これを利用して仕事を生み出すことができる。この法則を現実化したのがガソリンエンジンなどの内燃機関だ。

 また、風車による風力発電の場合でも、温度差が風を生みだし、これが風車をまわし仕事をする。温度差を創りだすために原子核の崩壊させるのが原子力発電だ。

 ちなみに温度差がなくなった状態を、物理学では「熱的な死」と表現する。エントロピー増大の法則に従えば、この宇宙もやがて温度が均一になり、「熱的な死」を迎えることになる。温度差がなくなれば、宇宙はもはや「無風地帯」となり、どんな仕事もしなくなる。

 温度差が仕事を生み出すというのは、差異が利潤を生み出すという利潤の法則と同じ構造をしている。ここで大切なのは、いかに差異を創りだし、その差異を有効に利用するかということだ。つまり法則をいかに現実化するかである。技術革新の本質がここにある。技術革新については、岩井さんはこう書いている。

<シュムぺーターの企業家たちは、お互いどうしの技術革新競争を通じて絶えず一時的な「遠隔地」を創り続けている。いわば「未来」という遠隔地を。この「未来という遠隔地」で成立している価値体系と直接接触できるのは、未来の技術条件を先取りできた、すなわちいち早く技術革新に成功した企業家だけである。そして、この未来の価値体系と現存の価値体系との間の差異が、企業家の利潤あるいはマルクスの言う特別剰余価値にほかならない>

 技術革新が<差異>を創りだし、企業はここから利潤をあげる。つまり、この場合も、<二つの価値体系の差異が利潤を産みだし、利潤はこの差異をやがて食いつぶす>という法則は成り立っている。 

 現代は金融資本主義の時代だといわれる。もちろん金融資本主義についても利潤の法則はなりたっている。しかしもはやそこには、生身の人間は介在しない。金利や公定歩合といった利潤率の<差異>だけが問題になるからだ。

 たとえばヘッジファンドで有名なソロスは日本の円の低金利に目を付けた。金利の安い円を大量に買って、これをドルにかえ、これを金利のべらぼうに高いほかの外貨に投資して、巨万の利益を稼ぎ出した。その結果、イギリスのポンドが暴落したり、東南アジアの国々の経済が破綻したわけだ。


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