橋本裕の日記
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2005年08月06日(土) 聖地巡礼

 昨夜は11時まで二人で歓談した。今日の起床は4:50分だった。ぐっすり寝たので、今朝の気分は爽快である。バナナと牛乳というシンプルな朝食を食べたあと、さっそく渋谷さんの車で出発した。

 渋谷さんの愛車はホンダのアコードである。運転を交代できるように免許書を持ってきたが、見るとミッション車だった。オートマチックに慣れている私にはむりである。彼ひとりで運転をがんばってもらうしかない。

 まず、石川啄木(1886〜1912)の故郷である渋民村(岩手郡玉山村渋民)を目差した。のどかな山や田んぼの道をあちこち寄り道したりして3時間半ほどかかった。

 かにかくに渋民村は恋しかり
 おもひでの山
 おもひでの川    (啄木)

 啄木が母校である渋民高等小学校で代用教員をしていたのは、1906年の4月から約1年間だ。その小学校がそのまま、啄木記念館の隣りに残っていた。小説「雲は天才である」のなかに描かれたとおり、一階に職員室があり、そこに古びた四つの机と椅子が並んでいる。啄木が座った椅子に腰を下ろし、机に頬杖をついて、しばらく感慨にふけった。

 その昔
 小学校の柾屋根に我が投げし鞠
 いかにかなりけむ   (啄木)

 二階に教室が二つ並び、生徒の小さな机と椅子が黒光りしていた。教室の窓の障子戸を開けて屋根を見ると、たしかに柾屋根だった。小学校には啄木が愛用したという古ぼけたリードオルガンも残っていた。その鍵盤にそっと指をおいて感触をたのしんだ。

 啄木記念館には、啄木が在職中の小学校の学校日誌が展示されていた。4人の教員が輪番制で書いていたらしく、石川啄木の書いた署名入りの墨跡も残っている。啄木にかぎらず、むかしの人は達筆である。

 記念館には啄木ゆかりの品がたくさん残っていた。手紙や原稿などだけではなく、盛岡中学校時代の国語の答案だとか、成績表まであった。啄木は盛岡中学時代に二度カンニングをしてついに退学になっている。その証拠になる盛岡中学校の職員会議録まで展示してあるのだからおそれいる。

「有名人になったりしたら怖いね」といいながら、近くの宝徳寺に足を伸ばしたが、境内は工事中で、寺も改装されてむかしの面影は残っていなかった。わずかに啄木をしのぶののといえば、境内の大きな木と、そこから展望される山々のすがただろうか。二十七歳で死んだ啄木が最後にまぶたに思い浮かべたのも、このふるさとの山だったのだろう。

 啄木のふるさとの山青々と
 ゆかりの寺に蝉時雨なく  

 渋民をあとにして、盛岡に車を走らせた。城跡公園近くの山屋という蕎麦屋に入った。さっそく「わんこそばを下さい」というと、「うちではやっていません」と言われた。しかたがないので、ふつうのざるそばを二人で三枚食べた。(三枚で1000円をこえ、300円の駐車代が無料になるため)

 腹ごしらえをしたあと、城跡の石垣に登り、本丸から市内を展望した。しかし、周囲にビルが立ち並び、往時の面影はない。せめてのなぐさめは、ビルの彼方に啄木と賢治がこよなく愛した岩手山が眺められたことだ。二の丸跡に「不来方のお城の草に寝ころびて・・・」という啄木の歌碑が建っていた。

 啄木は授業をさぼってここで不良をしていたわけだ。私も草むらに腰を下ろし、膝を抱いてぼんやりと空を眺めた。この日、盛岡は35度をこえるこの夏一番の猛暑だった。それでも高台の木陰はかすかに涼しかった。

 盛岡のお城の草はうすみどり
 膝をかかえて青き空見る

 盛岡を出て、いよいよ宮沢賢治のふるさと、花巻に行った。花巻農林高校の敷地の一角に羅須地人教会が移築されていた。賢治愛用のオルガンやマントがある。建物からはどこかハイカラな賢治の童話の世界が匂ってきた。

 そこから車で10分ほどのところにイギリス海岸がある。賢治が生徒を連れてたびたび訪れた北上川の岸辺である。なんの変哲もない風景だが、ここは私にとってはとても大切な「聖地」である。私は敬虔な気持で頭を垂れ、合掌した。

 川岸の歩道に「どうぞお気軽にお寄り下さい」という標識がひっそりと出ていた。石段を登っていくと「お休み処」があった。二人の婦人に迎えられ、縁側で冷たいお茶をいただきながら、眼下にイギリス海岸を眺め、賢治の話を聞いた。

 北上の岸辺を行けば賢治らが
 水あびをせしイギリス海岸

 岸見ゆる茶屋に休みてお茶をのむ
 北上川はうつくしきかな
 


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