橋本裕の日記
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2005年07月31日(日) 誠は天の道なり

 朱子の父親の朱松は1118年に22歳の時、科挙に合格した。多くの人は科挙に合格すると学問をしなくなる。しかし、朱松はそうではなかった。韋斎と号し、役人生活のかたわら学問に打ち込んだ。

 また、また役人を辞してからも、野にあって「大学」「中庸」の研究をした。そして47歳で死ぬまでに「韋斎集」12巻を残した。後に朱子がこれを受け継いだ。とくに「大学」を重視したのは、父親の影響が大きかった。

 朱子が父親を亡くしたのは14歳の時だったが、彼は父の死後も多くの師友に恵まれた。そのなかで、若い頃の朱子にもっとも影響を与え、彼自身が最高の師として尊んだ人物が李とう(人べんに同)だった。

 朱子が李先生に最初に会ったのは、24歳の時だった。役人として任地の同安県に赴く途中のことだった。李先生は世間的に無名だったが、死んだ父親が高く評価していた。そうしたわけで、朱子は旅の途中に足を伸ばしたのだった。

 若い頃の朱子は鼻っ柱が強く、何かと大言壮語するタイプだったらしい。とくにこのころ朱子は禅にかぶれていた。李先生を前にして、朱子は禅のすぐれているところを高唱した。これに対して李先生は「理は一つでも、その現れはいろいろだ」と言葉少なく語ったという。

 朱子はこれが何を意味するのかよくわからなかった。しかし、役人生活をしていろいろと現実の壁にぶちあたるなかで、この李先生のことがなつかしくなり、ふたたび会いに出かけ、三度目の時、正式に弟子入りすることになった。そして二人の師弟関係は、李先生が71歳で死ぬまで、最初の出会いから約10年間続いた。

「論語」の「学而篇」に「子曰く、父いませばその志を観、父没すればその行いを観る。三年父の道を改めることなきは、孝というべし」とある。あるとき、朱子は「もし、父の道があきらかに間違っていても、父親の喪の期間である三年間はあらためるべきではないのでしょうか」と訊いた。これに対する李先生の答えは次のようなものだった。

「もし世のなかがひどく害されるのなら、即座に改めなければならない。孔子が三年改めずと言ったのは、だれでもが踏み行うことができる孝行の道のことだ。大切なのは何が本当の孝行かということだ。改めるべきか否かという皮相的な事柄に囚われていては、その言葉の奥にある聖人の真意はわからない」

 李とうという人は、著作をひとつも残していない。政治家だったわけでもない。後世の私たちは朱子をとおして、彼の思想や行いを知り、その人物に近づくことができる。朱子はこう書いている。

<ふつうの人は、近所に出かけるときはゆっくりと歩き、遠くに出かけるときはかならず早足になる。ところが先生は、近所に出かけるときも、遠くに行くときも、まったく同じようにゆっくり歩かれた。

 またふつうの人は、人を呼ぶとき、二、三回呼んでもやってこないと、かならず声が荒くなる。ところが、先生の場合は、前と少しも変わらなかった。

 また、よその家へ行ったとき、客間の壁に掛け軸がかかっていると、私などはそちらのほうへ時々視線を走らせるが、先生は座っているときはきちんと坐ってわき見をせず、見たいときはかならず立ち上がって壁の前に行ってじっくり鑑賞した>

「中庸」には「誠は天の道なり」という言葉がある。李先生は道と一体化した境地を「洒落」(しゃらく)という言葉で表現したという。これはおしゃれという意味ではない。本来は、その人の心や態度が自然で、さっぱりしていて、何のわだかまりもないことを言うのだという。学問もここまでこなければ本物ではないのだろう。

 まったく名のない一介の隠者に過ぎなかった彼が歴史に名を残すことになったのは、たまたま朱子というすぐれた弟子をもったことによる。しかし、このような人物に惚れ込み、生涯の師として仰いだ朱子もまた、ただ者でなかったことがよくわかる。


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