橋本裕の日記
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儒教は長い間、日本人の精神を支えてきた。私はいわゆる武士道といわれるものの正体は儒教だと思っている。明治時代の政治家も実業家も思想家も、そして庶民にいたるまで、この儒教精神の余沢をゆたかに受けていた。
西洋の思想や技術も、この儒教という教養の上に接ぎ木され、花を開き、実を結んだのである。儒教によって培われた「学問を愛する心」とその高潔な「道徳性」は、日本人の大きな財産だった。
江戸幕府は朱子学を官学にしたが、やがて陽明学が移入され、儒教はたんに為政者のものではなく、すべての人々にとって生きる糧になった。「民は貴し」という孟子の精神がそこで確認され、万人が持っている「良知」のすばらしさが強調された。
しかし、やがて日本人は富国強兵というスローガンの奴隷になることで、儒教という精神の培地を失った。天皇制がはばをきかせ、その高潔な道徳性もうしなった。日本人はそれまで先哲のふるさととして尊んできた中国に西欧列強の真似をして兵を送り、これを蹂躙した。
戦後、日本は平和憲法のもとで民主国家に生まれ変わったが、あいかわらずその精神の基盤は脆弱なままである。政治家は汚職を繰り返し、官僚もまた同じである。企業の倫理は地に落ち、毎日のようにその不祥事が報道されている。
経済優先、効率優先が、まるで錦の御旗のようにまかりとおり、会社は株主の利益だけを考えて行動するようになった。リストラが横行し、貧富の差が拡大し、年間3万人以上の自殺者を出していても、「自己責任」ということばで簡単に片づける。しかもそうした社会に仕組みに、ほとんどの人が異常を感じない。現代はほんとうに恐ろしい時代である。
私はやはり現代人の多くが、自分のよってたつ原点をみうしなっているのだと思う。そこで、かっての日本人を支えていた精神構造をさぐってみた。吉田松陰にはじまった私の旅は、中江藤樹や熊沢蕃山にいたり、やがて王陽明、朱子に至った。そしてその先に聳えたっている孔子と孟子という大きな山のふもとにたどり着いた。私の旅はこれからまだまだ先がながい。
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