橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2005年07月29日(金) 格物致知

 朱子が34歳の時、時の皇帝(孝帝)の前で上奏文を読み上げた。朱子が「大学」にある「格物致致」の学について読み上げると、皇帝はいちいち相槌をうって機嫌がよかったという。しかし、政治に対する苦言を読み始めると、黙り込んでしまったという。

 ところで、朱子がいう「格物致知」とは何か。「格物」とは「物に至る」ということで、事物に即して、その事物の理を窮めることをいう。「致知」は「知を致す」ということで、知を中途半端なままにしておかないで、本質にまで深めることをいう。朱子は学問を研究する方法として、これが基本だと考えた。

 ここで「格物」というのは、空理空論を排して、まず事物そのものにまっすぐ向かい合うことである。朱子はこうした厳格な客観主義を自分の学問のスタイルとして貫こうとしたわけだ。かって孔子も「述べて作らず」と言ったが、勝手な主観によって作為をしないというのが朱子学の根本的性格である。

 また朱子は人が知を求めるのは、たんに立身出世のための道具としてではなく、知そのものを明らかにし、人が正しく生きる道を得るためだと考えた。だから、「致知」ということは、「人生において何が善か」ということを徹底的に明らかにするということでもある。

 彼はこうした方法で「論語」や「孟子」に向かいあった。朱子はまずそれらの「原典」について研究し、さらに先人が残した厖大な文献を詳しく研究した。そして、その集大成として、それらの解説書を書いた。これは大変根気のいる仕事である。

 さらに「中庸」と「大学」についても同様の研究をおこなったが、これらについては、文献の量が少なかったこともあり、朱子や朱子が学んだ師たちの研究成果を多く入れて解説を書く必要があった。とくに、朱子が力を入れたのは「大学」だった。

 「大学」「中庸」はもともと「礼記」のなかの一遍である。後世になり、これを独立な書としてあつかうようになった。「中庸」は5世紀のころからこうした扱いを受けていたが、「大学」が書として独立した扱いをうけるようになったのは、宋の時代になってからだという。

 朱子は教育上の見地から、なかでも「大学」を重視した。その理由は、これが儒学の理想である「自らを修め、人を治める」という道をもっともわかりやすく説いているからだ。たとえば「修身斉家治国平天下」という有名な言葉も「大学」のなかにある。朱子は儒学を学ぶにはまず「大学」から入り、「論語」「孟子」「中庸」へと進むべきだと考えた。

 朱子は「大学」を儒教の表玄関、「中庸」を儒教の奥座敷とよんでいる。「中庸」は儒教の文献でありながら、仏教や老荘の思想に相当する深遠な哲理がのべられている。これを最初に読んでも理解できないし、むしろ人を惑わせることになりかねない。物事を学ぶにも順序があるわけだ。

 「大学」「論語」「孟子」「中庸」を四書と呼ぶのも、朱子が始めたことである。儒教の経典には他に「五経」と呼ばれる「易」「詩経」「書」「春秋」「礼記」がある。朱子はこの五経の上に「四書」をおいた。なぜなら、「四書」こそが儒教の根本精神を明らかにしていると考えたからだ。これを読むことで、思想が形成され、人間が形成される。

 意外に思うかも知れないが、科挙で重んじられていたのは「五経」の方だった。朱子はこれを本末転倒だと言って批判し、孔子や孟子の根本精神に帰ることを目差した。そしてその突破口を「大学」の学習においたわけだった。

 朱子は「論語」については、「論語集義」「論語或問」「論語集注」を、「孟子」についても「孟子集義」「孟子或問」「孟子集注」を、「中庸」については「中庸章句」など3書を、そして「大学」については「大学或問」と「大学章句」を著している。これによって、儒教をいかに学ぶべきか道があきらかになった。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加