橋本裕の日記
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2005年07月28日(木) 偉大な教育者

 朱子は19歳の時に科挙に合格した。成績は330人中の278番目だった。朱子は科挙のための試験勉強はあまりしなかったのだろう。しかし、この成績では高位高官になるのはなかなかむつかしい。事実、朱子はあまり出世しなかった。

 そもそも役職についている期間が短かった。24歳の時最初に彼が役人として赴任したのが福建省南部にある同安県で、彼はそこの出納帳にあたる主簿という役職だった。朱子はこれを4年間務めた。

 朱子がもっとも力を入れたのは学校教育の改革だったという。とうじの官立の学校は、おおむね科挙受験のための予備校になっていた。科挙に合格するにはどんな答案を書いたらよいかといった本来の学問とはいえないような技術的な受験指導に墜ちていた。

 教師も生徒を科挙に合格させることしか念頭になく、生徒達も科挙に合格して利禄が得られることしか念頭になかった。学問は栄達の手段にすぎず、これによって人格を陶冶しようとか、将来官僚になったとき、どういう姿勢で政治を行おうとかはどうでもよかった。こうした話題を持ち出すと、生徒達は教師を嘲笑したという。

 そしていやいやする勉強なので身が入らない。午前中にだけ勉強して、午後はさっさと遊びに出かける。そんなまやかしの勉強をして、要領よく科挙に合格すると、それを鼻に掛けていばり散らすというふうで、朱子はこうした現状に危機感を持った。こんな手合いが役人になって、金持ちとぐるになり、農民をいじめるわけである。

 こうした荒廃した県の教育の現状を変えるために、朱子は学校の図書館を充実したり、土地の名士に頼んで学問のほんとうの意義を講義して貰ったり、学生の父兄に諭告を出したりと、ずいぶん努力した。また貧しい学生のために奨学金をもらえるように州政府に働きかけたりしている。

 しかし、州政府も資金不足にあえぎ、できれば県の官立学校は閉鎖したいのが本音だった。当然朱子と意見が合うはずがなく、衝突することになる。こうして悪戦苦闘の4年間を経て、朱子は職をしりぞき故郷の崇安に帰った。

 朱子はこのあと50歳で南康軍の知事になるまで、約20年間、実際の公職についていない。母親と一緒に暮らし、学問研究にうちこむ生活だった。朱子がこうした学究生活ができたのは、政府から恩給が出たかららしい。そして形式的な役人の肩書きだけはあった。

 朱子は故郷に身をひそめながら、学問研究に打ち込んだわけだが、在野の立場からさまざまな活動をしていた。その一つが昨日紹介した「社倉法」の実践である。地域の農民を救うために陳情し、中央政府にも何度も上申書を出した。

 しかし、なんと言っても、朱子の真骨頂は学問・教育の研究にある。朱子は人々をほんとうにしあわせにし、国をやすらかにするものは教育だと考えていた。正しい教育によって、本物の学問をひとびとの間に普及することが自分の使命だと考えていた。これは同安県での4年間の役人体験が大きかったのだろう。

 それでは朱子の学問研究はどのようなものだったのか。「朱子学」のあらましを、明日の日記で紹介しよう。


橋本裕 |MAILHomePage

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