橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2005年07月27日(水) 信用組合の元祖

 ヨーロッパでは私的利潤を求める企業組織ではなく、また政府の組織でもない、市民による市民のための生活協同組織が発達している。しかし、中国や日本でもそうしたものがなかったわけではない。たとえば朱子学で有名な朱子(朱熹)(1130〜1200)も、こうしたものを作っている。

 朱子は南宋(1127〜1278)時代の人である。この頃、宋は東北の契丹,西北の西夏などの新興勢力に対抗するために軍事費に圧迫され、政治家達の権力争いもひどく、内政はなおざりにされていた。

 社会は人民の1割り及ばない大富豪と、9割り以上の貧民の両極に分解していた。商人や地主は私益を追い、役人は腐敗し、賄賂などの悪事が横行していた。そのため社会秩序は乱れ、盗賊が国中にあふれていた。そのうえ、毎年のように飢饉が襲いかかり、多くの人々が餓死していた。

 農民の多くはたとえ豊作の年でも、端境期になると豪農から数倍の高利をはらって米を借り、食料や種もみにしなければならなかった。これは端境期で農民の保有米が底をついたころを見計らって、悪徳地主が役人とぐるになり、米の売り惜しみをして米価をつりあげ、暴利を貪っていたからだ。こうした中で春から夏にかけて農民一揆が頻発した。

 この惨状を何とかしたいと考えていた政治家がいなかったわけではない。たとえば北宋時代(960〜1127)の王安石(1021〜1086)はこうした腐敗した政治を何とか改めたいと考えた。皇帝の信任が厚かった彼は、宰相となって、政治改革の先頭に立った。

 彼は次々と新政策を打ち出したが、そのなかでも注目すべきものに「青苗法」がある。これは農民を高利貸しの魔手の手から守るために、政府が常平倉に備蓄していた官米を低利で貸し出す制度である。彼はこれによって窮民を救い、あわせて政府の財政をも潤そうと考えたが、結局成功しなかった。

 役人達は成績を上げるために、農民たちに政府米を強制するようになり、しかも厳しく利息の返済を要求したので、かえって農民を苦しめることになった。王安石のもくろみとは反対に、「青苗法」は天下の悪法だといわれ、王安石の改革もついに挫折してしまった。

 こうして地方はますます疲弊し、暴動が頻発した。朱子が住んでいた地方でも一揆が横行し、彼の身辺にまで及ぼうとしていた。そこで、朱子は県や府に申請して、官米6百石を貸与して貰い、それを農民達に配給した。朱子がこうしたことができたのは、彼の説得が真に迫っていたことにくわえて、彼がそのころ枢密院編修官という中央政府の肩書きをもっていたことも大きかったようだ。

 その年の冬の収穫で朱子は借りた6百石を返却するかわりに、借用証書を提出し、6百石はそのまま備蓄米として「社倉」に保管した。そして翌年の夏、朱子はこれを10分の2という安い利息で希望する農民に貸し出した。このとき朱子はもし不作であれば無利子にするという条件をつけている。

 これを14年間続けるつづけるうちに、最初に借りた官米を返してもなお「社倉」のなかには3千石以上の米が備蓄されることになった。そこでこれ以後は利息米をとることをやめて、1石につき二升ずつの損料をとるだけにした。それでもやがて備蓄米は5千石に達し、この地方はもはや飢饉の年でも農民が困ることはなくなったという。

 朱子がはじめた「社倉」制度のすぐれているところは、その運営を朱子と村人の共同管理で行ったことだ。そして米を出し入れするときだけ監視役として役人を呼んだ。朱子の「社倉」については、これは「青苗法」をまねるものだという批判があったが、これはまちがいである。その管理を役人にまかせず、農民が主体になっている点で、まったく別の発想に立つものだというべきだろう。

 朱子はこうした実践をふまえて、「社倉事目」という社倉の運営管理に関する条例を作って政府に上申している。どうじに朱子は「条例」だけではだめで、いかにそこに魂を入れるかが問題だと述べている。

 そして魂とは「民を愛する心」だという。また、いくら心があっても「政」がともなわなけば、これも何の役にも立たないという。これは朱子が尊敬した孟子の思想だった。

 <その心ありてその政なきを徒善といい、その政ありて心なきを徒法という>(孟子注)

 朱子の「社倉法」は江戸時代に「朱子学」とともに日本にもたらされ、各地で実施されたという。それらの一部は現在も「文化財」として大切に保存されているようだ。民俗学者である柳田国男は「日本における産業組合の思想」という論文のなかでこれを取り上げ、社倉法を現在の信用組合制度の先駆けとして高く評価している。

 朱子はのちに南康軍の県知事になった。このとき彼がまずしたことは教育に力を入れて、私学を再興することだった。さらに、彼の治める地方が飢饉に見舞われたときは、その救済事業として公共事業に力を入れた。

 つまり食に困っている人たちを集めて、港に防波堤を築いた。これによって飢えた人に収入を与え、大風が吹くたびに難破していた舟も救われることになった。朱子はまた裕福な寺院に命じて、その修復工事をやらせた。こうした政策によって、彼の県では11万人あまりの大人と、9万人以上の小児が餓死を免れたと報告されている。

 朱子学は江戸幕府の官学になったこともあり、批判も多いが、こうした朱子の実践をみればわかるように、実利的にすぐれていた面が多くある。また、思想家としても超一流であり、陽明学もここから出ている。朱子もまた現代の私たちが学ぶべき思想家の一人だろう。

(参考文献)
「中国の人と思想8・朱子」 佐藤仁著 集英社


橋本裕 |MAILHomePage

My追加