橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2005年07月21日(木) 倫理を支える世界観

 私は倫理とは「他者のいのちを愛おしむこと」だと考えている。自己を生かすとともに、他者を生かしながら、「共生的に生きること」だといってもよい。私は生きる上でこれが一番大切だと思っている。

 倫理は個人を超えたレベルの集合体にも通用する。家族には家族の倫理があるし、会社や国家のレベルでも倫理は存在する。「他を生かす」という共生の精神は普遍性をもっている。そうした意味で、道徳ではなしに、あえて倫理という言葉をつかった。

 この倫理の基底にあるのは、どういう世界観だろう。それはいうまでもなく、世界は本来的に共生的にできているという世界観である。私は儒教の倫理をたいへん評価しているが、しかし、こうした共生的な世界観をはっきりと打ち出しているのは、何と言っても仏教ではないかと思っている。この点について、昨日友人の北さんが掲示板にわかりやすく書いてくれたので引用させていただこう。

<私は、この「自分は生かされている」という発想こそが、日本人の最も自然な「倫理観」になるものだと思います。日本人の倫理観は、日本人の中に「古層の神」として潜在しているアニミズムの感覚を呼び起こし、「生かされている」という発想から再構築していくことしかないと思っています>

 仏教はすべての存在がおたがいに関わり合い、お互いを支え合いながら他者依存的に存在していると説いている。この意味で「自我」というような独立した実体というものは存在しない。このことを認識し、他者に生かされていることを感謝しながら、自らも他者を生かし、そこに喜びを見いだして生きて行こうとするのが本来の仏教者のありかたである。

 私はこうした仏教の共生的な世界観と倫理をとてもすばらしいものだと思う。そしてこうした思想を生身の生活の中で実践した親鸞や日蓮、道元、良寛という人々を大変すばらしい人たちだと考えている。私は現代の「安心立命」や「現世利益」に傾いた仏教からは離れつつあるが、こうした本来の仏教には惹かれる。

 「他者を生かす」ということはどういうことか。もう少しこれをつきつめてみると、それは「他者の多様な生き方を尊重する」ということだ。深い森に行けば分かることだが、そこでは多様な生命が仲良く共存している。一部の強い植物や動物が力にまかせて他者を駆逐しているわけではない。こうした多様性こそが、森を美しく豊かな世界にしている。

 これにたいして、森が切り開かれ、開発された土地、人間が強権的に支配し介入しているところでは、そうはいかない。セイダカアワダチソウなどの外来種が、他者を駆逐しながらわがものがおに勢力を張っている。ここに見られるのは、露骨な生存競争であって、お互いを生かし合いながら、みずからも生きようという共生の姿勢は稀薄である。

 しかし、こうした弱肉強食の世界が自然の本来の姿ではない。それはこの地上にいまだに何百万種というじつに多様な生物が存在することからも明らかだろう。そのうちの一員である人間があまりに増えすぎ、しかも他者の存在をないがしろにするので、自然もまたこうした殺伐とした一面をみせているだけである。

 仏教の世界観と倫理は、他者として人間だけではなく、この地上に存在するすべての生きとし生けるものにまでその射程がとどいている。私たちはこれを大切にしよう。私たち人類がしあわせに生き延びるためには、こうした万物を生かそうとする深みのある世界観と倫理に立脚するしかないのである。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加