橋本裕の日記
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2005年07月18日(月) 蕃山にみる社会組織論

 逆ピラミッド組織について書いたが、おなじ発想がもう2千年以上もまえに孟子によって語られている。このことを北さんに指摘されて気づいた。「孟子」にはこう書かれている。

「民を貴しとなす。社稷(しゃしょく)これに次ぎ、君を軽しとなす」
「諸侯の宝は三。土地・人民・政事なり」
「天下を得るに道あり。その民を得れば、ここに天下を得る」

 これは君主を頂点にいただく武士階級の下に農民や商人などをおいた封建制のヒエラルキーを完全にくつがえすものだといえよう。孟子のこの思想を受け継いだのが王陽明だった。したがって中江藤樹や熊沢蕃山にもこの発想が濃厚である。

 幕府が官学として朱子学は君主を頂点にした典型的なピラミッド組織論である。君主は武士を統率し、武士は農民を管理支配して、これから年貢をとりたてるのが役目である。つきつめればすべては君主のために、滅私奉公しなければならないという発想に立った考え方だ。

 陽明学はこれを根底からくつがえした。国の富の源泉は農民の労働のたまものである。武士はこの農民を助けるのが本分である。そしてこの武士を根底で支えるのが君主でなければならない。これによって国は治まり、経済的にも豊かな安国となることができる。

 もちろんこれは理想論であった。実際は、幕藩体制というピラミッド組織が厳然と存在し、君主や武士は農民からできるだけ多く年貢をしぼりとろうかと考えていた。そしてこの強権的な体制を維持するために、朱子学という洗脳装置だけではなく、過酷な法律と刑罰を用意していた。これについて荻生徂徠もこう書いている。

<王侯卿大夫の職にそなわりて、我が身の君主なることをしばししらず、賤しき昔の武士の名に拘り、学問を以て才智を広め、文を以て天下を治むることをばしらず、目を苛らげ、肘を張り、刑罰の威を以て人を脅し、世界をたたきつけて、是にて国を治むると思へるは、愚かなることの頂上なり>(太平策)

 もちろん、中には学問好きの君主もいた。備前藩主の池田光政はその代表格だった。彼は熊沢蕃山から「民を貴し」とする孟子や陽明学を学び、そしてこれを実践させた。「百姓ばかりを大切につかまつり、さむらいどもをばありなしに仕候」という藩内からの不満が吹き出す中、新参者の蕃山が辣腕をふるえたのも、池田光政の全面的な支援があったからだ。蕃山は「集義和書」のなかでこう書いている。

<一国の中、何の用にもたたざる者、親のあととて知行をとり、家人をいかり、百姓をしいたげ、俗に催促人といへる者のごとくなる者多し>

<上奢り下苦しむ時は乱れ滅ぶ。損これより大なるはなし。上質素に下豊かなる時は国治まり、天下平かなり、益これより大なるはなし。上を損し下を益の政あり。上無欲にして物を蓄へあつめたまはざれば、財用をのづから下に散じて、下の心上にあつまり服するものなり。人心の帰服する益是より大なるはなし>

 民に厚く武士に薄くという蕃山の方針は、最終的には大禄を食んでいる家老や重臣の家禄を1/3にするという献策にまでなった。光政はこの献策に賛成したようだが、これにはさすがに藩内の武士達も色を失った。藩内に不穏な動きが起こったので、光政は蕃山の身を案じて隠棲させたという説がある。

 徳富蘇峰は蕃山を「幕府の中央集権制度を、根底より破壊せん」とした革新思想家と位置づけている。そして、「蕃山は其の思想を、直ちに実行せんとする改革家の気分、尤も濃厚」だった。これは「知行合一」を唱えた陽明学の思想の性格でもある。

 しかし、蕃山よりももっと過激な行動主義者がいた。1651年に乱を起こした由比正雪である。蕃山はこの乱の首謀者の一人として名前があげられた。さらに幕府の猜疑の目は、池田光政や、蕃山から儒学を、そして正雪から軍学を学んでいた徳川御三家の紀伊藩主徳川頼宣にまで及んだ。蕃山が岡山藩を辞したのはこのためだという説もある。


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