橋本裕の日記
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少し前から、私の座右に中江藤樹の「翁問答」と熊沢蕃山の「集義和書」がある。松田松陰や高杉晋作などもこれを読んでいたのだなと思いながら、感慨深く読んでいる。これを読み終えたら新井白石の文章もよんでみようかと思っている。
以前、吉田松陰の文章を読んでいて、いっぺんにこの人が好きになった記憶がある。「文は人なり」というが、やはり原文でよんでみると、その人の息づかいまでが届いてくるようで、迫力が違う。
陽明学は本家の中国ではすっかり廃れたが、日本でそのすぐれた後継者を得た。これがやがて幕藩体制をゆさぶる倒幕のエネルギーになって、日本の歴史を動かしていく。佐久間象山や吉田松陰がそうだし、高杉晋作も熊沢蕃山をだれよりも尊敬していた。
陽明学にとって不幸だったのは、これが軍国主義の時代に悪用されたことだ。しかし、昭和維新を叫んだ青年将校たちが、どれほど深く中国の古典を学び、江戸の古典を読んでいたのか疑問である。私は彼らを悪しき陽明学徒と呼んでいる。
王陽明は朱子学を批判するにあたり、孟子、孔子の原典に遡っている。朱子が手をくわえて編纂したものを、もう一度もとにもどし、あらたに「大学」などを編纂し直した。私たちも薄っぺらな解説書や歴史書で早合点するのではなしに、やはり原典をしっかり読むことが大切ではないだろうか。もちろんこれは陽明学だけにあてはまることではない。
中江藤樹や熊沢蕃山、吉田松陰を読んでいると、日本人として生まれたことが何だか誇らしくなってくる。戦後西洋の民主主義が輸入され、陽明学は進歩的学者からずいぶん批判されたりしたが、陽明学を批判する人たちの多くはただ借り物の衣をきているだけである。その衣を脱いだとき、いったいどれだけ充実した中身があるか問題である。
民主主義は何も西洋の専売特許ではない。封建的専制的といわれる中国や日本にも民を尊ぶ独自の思想の伝統があり、実践があった。陽明学はそのなかでもひときは美しく大きく輝いている。
東洋の思想にはある部分では、西洋の思想より進んでいる部分もある。国の将来を考えたとき、私たちはこれを誇りに思うだけではなく、これをさらに発展させて、借り物ではない血の通った思想哲学を構築し、将来への実践の足場にしていくことが大切である。
東洋にかぎらず、世界の古典に学ぶことはとても大切なことだ。私たちは古人との対話をとおして、古人の人生に対する志しの深さを知る。それによって自分の生きる姿勢を確立し、人生観・世界観を深めていくことができる。私はこれからもこうした志をもって、真摯に古典に学びたいと思っている。
(参考文献) 「日本思想体系29・中江藤樹」 岩波書店 「日本思想体系30・熊澤蕃山」 岩波書店
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