橋本裕の日記
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2005年07月11日(月) 愚に入りて愚にあらず

 西郷隆盛が王陽明の「伝習録」を座右にし、「敬天愛人」をモットーにしていたことは有名である。西郷に限らず、大久保利通はじめ勤皇の志士の多くは陽明学を心の糧とし、行動の原理にしていた。

 とくに蕃山は彼らのなかで人気があった。藤田東湖、吉田松陰、高杉晋作などが傾倒しただけでがなく、幕府の役人であった勝海舟も蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べている。また、吉田松陰の師で、洋学者であった佐久間象山も蕃山を「老師」と尊称で呼んでいた。

 明治時代になっても蕃山の人気は衰えなかった。政治家や軍人ばかりでなく、経済界でも岩崎弥太郎などが彼を敬愛し、明治天皇は明治43年(1910年)江戸時代の学問を興隆させた功績により蕃山に正四位を与えている。こうしたことはかなり異例なことだ。

 熊沢蕃山については、いろいな逸話が残されている。その名前や反骨の経歴から想像されるのは、かなりごつごつした武人のイメージだが、実際はそうでもなかったらしい。岡山の旧家に伝わる蕃山の肖像画は美女とみまがうほど臈長けたものがあるという。

 蕃山をモデルにしたといわれている「朝顔日記」には「世にまれなる美丈夫にて、うまれつき眉清く目秀で、色は雪より白く、きりょう気骨あっぱれなるおとこぶり」とその人品が描かれている。

 20歳のとき元服したばかりの蕃山は岡山藩主池田光政のもとを離れているが、これにも何か深いわけがあったのかも知れない。実際蕃山はかなりの美少年であったらしい。京で育ち、源氏物語を愛読し、源氏の女好きは「仁愛」の発露でもあるという大胆な解説を書いたくらいだから、なかなかの文学趣味の持ち主でもある。

<この物語において、第一に心つくべきは、上代の美風なり。礼の正しくしてゆるやかに、楽の和して憂なるてい、男女ともに上臈しく、常に雅楽をもてあそびていやしからぬ心もちなり。次には書中人情をいへる事ちまびらかなり。人情を知らざれば五倫の和を失う事多し。これにもとりては国治まらず、家ととのほらず>(源語外伝)

 蕃山は色事を知り、下情に通じることも、政治を行うための大切な要件だと書いている。もっともこうした立場から道学者ふうに源氏物語を語ることは、本居宣長などにとって我慢がならないことだったようだ。しかし、儒学者で経世家の文章とは思えない柔軟さである。宣長のような色眼鏡さえ棄てれば、その行間からは「もののあはれ」もかすかにただよってくる。

 蕃山は琵琶、笛、笙をよくし、音楽家として一家をなしていた。蕃山に私淑していた高杉晋作もよくしゃみせんを弾いて、小唄をうたっていた。彼は騎兵隊を指揮した重大な戦の前でも兵士たちの前で三味線を弾き、「愚」の大切さを説いていたという。

<余、少年時、熊沢氏の集義和書を読む。云うあり、学文を作す程なれば、世間の利発の人となるなかれ。世間の愚者となるべしとなん。余も世間の愚者とならんことを願い、ようやく苔穴に陥るまでに勉強致せし。故に、世間の利発者流の人は、吾が志を知らざるなり>(高杉晋作全集)

 蕃山は幕府権力に楯突き、あたら3000石をも棄てた自分の生き方を、「名聞利害にかしこく習いたる巧者」ではなく、「今の世の愚なる人」と突き放して眺めていた。高杉晋作はこうした蕃山の生き方を、「愚に入りて不愚に帰す」と讃えている。

 切腹を覚悟でペリーの軍艦に乗り込んだ吉田松陰も、愚なる人物の最右翼といえる。しかしこうした愚人たちがつぎつぎと輩出して、日本に新しい時代が開かれた。そのおおもとに、孔子や孟子の教えがあり、愚直を伝統とする陽明学の教えがあった。

(参考文献)
「反近代の精神、熊澤蕃山」 大橋健二、勉誠出版


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