橋本裕の日記
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2005年07月10日(日) 陽明学の良知説

 王陽明学の精髄は「致良知」である。陽明は「良知」を孟子から学んでいるが、孟子とちがうところは、はるかにそのパワーが増大して、宗教色を帯びているところだろう。「伝習録」からひいてみよう。

<良知は天地万物の聖霊である。この聖霊は天地を生じ、鬼神を作り、天の最高神である上帝を作る。すべてのものは良知から生まれた。それは世界と一体であり、万物から離れて存在するものではない。

 人がもし、この良知に服して少しの欠けるところもないものならば、おのずから喜びにみちて手足が舞い踊り出すだろう。天地のあいだに、これに代わる楽しみがほかにあるだろうか>

 これはまさに宗教的境地に近いものだろう。この良知を西洋の言葉で表すとすれば、私は「ロゴス」ではないかと思っている。それもストア哲学でいう万物の根源としてのロゴスである。あるいは、ヨハネ伝の「はじめにロゴスありき」のロゴスである。

 中江藤樹は「良知」を孟子から学んだが、王陽明の説を知るに及んで、その解釈を大きく変えている。晩年の藤樹の学問はこうしてその境地を深め、おおきく変貌する。それはまざに、植村正久のいうように、<人をして天にいたらしめんとす>というほどの変化である。

 陽明学にはとくに禅の影響が大きいと言われるように、王陽明は仏教や道教に親しみ、これを排斥しなかった。中江藤樹は仏教には批判的だったが、晩年にはこれを許容するようになった。そして神道にも理解を示している。これもまた王陽明の感化が大きいのだろう。

 人間と世界の善性を信じ、世界を創造したものは「良知」だと説く王陽明や中江藤樹の思想は底抜けに楽天的であり、その境地は明朗活発である。そこにはキリスト教の原罪の意識も、親鸞の説く悪人正機説の入り込む余地はない。

 そうした湿っぽいものを呵々大笑する雄大さをそなえていて、清明であり意気軒昂である。浩然の気を養い、人生に積極的になろうと思うなら、ストア哲学か、もしくは陽明学を学ぶことをおすすめする。


橋本裕 |MAILHomePage

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