橋本裕の日記
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2005年07月09日(土) 陽明学とキリスト教

 林羅山は陽明学をキリスト教の一派だといって弾劾した。しかし、これは一概に荒唐無稽な説というわけではない。じつは陽明学とキリスト教はその本質がとても似ている。林羅山はこの点で、かなり目利きだった。

 中江藤樹を「代表的日本人」として賞賛した内村鑑三は、キリスト教徒になる前は熱心な陽明学徒だった。同様のことは、内村と並ぶ指導的キリスト教徒であった植村正久にもあてはまる。彼は「王陽明の立志」のなかでこう書いている。

<儒学は人をして地を離れしめず。しかれども陽明学は人をして天にいたらしめんとす。儒学を知らんと欲する者は、朱子を措いて王陽明を繙くべし。山上垂訓の精神は、陽明洞の達人、すでに幾分その微光を観る>

 陽明は人は誰もが心に中に<聖人>を生まれながらにもっているという。これを顕現できれば、だれしもが<聖人>になることができる。これが陽明が強調した<立志>ということだ。王陽明の<聖人学>はその高潔な倫理性といい、たしかにキリスト教に通じるものをもっている。

 「武士道」を広く西洋社会に紹介した新渡戸稲造も、キリスト教徒になる前は熱心に陽明学を学んでいた。キリスト教に改宗してからも、彼は陽明学を高く評価して、「武士道」のなかで王陽明についてこう紹介している。

<西洋の読者は、王陽明の著述のなかに「新約聖書」との類似点が多いことを容易に見いだすであろう。特殊なる用語上の差異さえ認めれば、「まず神の国と神の義を求めよ、さらばすべてこれらの物は汝らに加えられるべし」という言は、王陽明のほとんどいずれのページにも見いだされる思想である>

 王陽明は「伝習録」に「人の胸中には個々の聖人あり」と書いている。これはヨハネ伝の「父(神)は我にあり。我は父にあり」(第十章題38節)やルカ伝の「それ神の国はなんじらのうちにあり」(第十七章21節)に通じる。またパウロの有名な「神、わがうちにありて生きるなり」というロマ書の言葉にも通じる。

 中江藤樹はこうした陽明の聖人思想に強いシンパシーを持っていた。彼は「世界のうちにあるすべての人々は、皆皇上帝・天地地祇の子孫である」(翁問答)とも述べている。天神を人格的に捕らえるなど、その高潔な個人中心の倫理観といい、藤樹の世界観・人生観はキリスト教の精神性に通じるものがある。

 これは偶然だろうか。実はここに面白い資料がある。レオン・パジェスの「日本切支丹史」の1626年の項には次のように藤樹らしい人物が描かれているという。

<四国には一人の異教徒がいて、彼は支那哲学とイエズス・キリストの教えは同じだと信じ、ずいぶん前から支那の賢人の道を守って来たのであった。彼は一伝道師士に会って、己の誤りを知り、聖なる洗礼を受け、以来優れたキリシタンとして暮らした>

 大洲の三穂神社の境内には、隠れキリシタンとして処刑された3人の祠があり、そのうちの一人、来島徳右衛門は藤樹の叔父だという説がある。そして藤樹の祖父の祠もまたすぐ近くに祀られているという。

 こうしたことから、藤樹が隠れキリシタンであったという説が出てくるわけだ。私は藤樹はキリシタンだったとは考えないが、なにがしかの影響を受けたことはまちがいないと思っている。大洲藩士を止めた理由のひとつに、キリスト教とのかかわりがあったかも知れない。

 なお、私は陽明学にもっとも近い西洋思想はキリスト教ではなく、ストア哲学ではないかと思っている。キリスト教はその最良の部分をストア哲学に負っている。とうぜん、陽明学とキリスト教もまたよく似ているわけだ。


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