橋本裕の日記
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2005年07月08日(金) 道者と史儒

 王陽明も中江藤樹も主君には恵まれなかった。その点、熊沢蕃山は師にも主君にも恵まれた。彼が仕えた池田光政(1609〜1682)は水戸光圀にならぶ学問好きの名君として知られている。

 この主君の庇護があったればこそ、蕃山は藩政に力をふるい、他藩や幕府からさえ経世家として評価されたわけだ。門閥をもたぬ蕃山に二千石、三千石を与え、学問の師としてだけではなく、藩政までも委ねたのは、よほど蕃山に惚れ込んだのだろう。

 それは蕃山を通して知った中江藤樹にたいする尊敬であり、王陽明に対する尊崇でもある。朱子学が官学として公認されているなかで、藩主みずからが陽明学に理解ある態度を示すことは、勇気のあることだった。

 池田光政は戦国武将の池田輝政を祖父に持っている。徳川家康の娘の督姫(とくひめ)を祖母に持ち、しかも天樹院(千姫)の娘の勝子と結婚している。祖父は輝政は姫路城を築き、姫路藩主であった父の池田利隆の死後、1632年に池田光政は岡山藩主になった。

 学問を好み、家臣たちと一緒に書をよく読んだ。1641年には、上道郡花畠に学舎をつくり、藩の師弟の学問、武技練習場とした。そして1654年備前に大洪水が起こると、光政は、蕃山の補佐を得て、飢民の救済に力を尽くしている。1670年に閑谷(しずたに)学校を設け、岡山藩では学問がたいへん栄えた。

 まだ蕃山が幕府の厳しい詮議の対象になっていないころから、彼をとくに目の敵にしたのは林羅山(1583〜1657)だった。由比正雪を弾劾した「草賊前記」(1651年)で、正雪一味の思想的黒幕は蕃山だと断定し、さらに島原の乱を起こしたキリスト教と陽明学が類似の思想であり、蕃山はその仲介者だという説を述べている。

<熊沢は備前羽林(池田光政)の小臣なり。妖術を以て聾盲を誣ふ。聞く者、迷いて悟らず。多く約して結び、漸く党を為すに至り、・・・この草賊等は、皆熊沢の妖言を聞く者なり>

 羅山といえば、豊臣秀頼が鋳造させた方向寺の梵鐘の銘文「国家安泰、君臣豊楽」を家康を呪うためのものだといいがかりをつけ、大阪冬の陣の開戦の口実を作りだした知恵者である。

 林羅山が儒者でありながら僧の極位たる法印に叙せられた直後、まだ24歳の大洲藩士だった中江藤樹は、「林氏剃髪受位弁」を著わして、御用学者・羅山の欺瞞性を糾弾した。後に藤樹は、「翁問答」において、四書五経、諸子百家の書をそらんじて「口耳をかざり利禄のもとめとのみ」する儒者は、「俗儒」であると断じている。

<儒道をおこなふ人は、天子・諸侯・卿大夫・士・庶人なり。此五等の人のよく至徳要道を保合するを真儒と云なり。しかるゆへに、天子・諸侯・卿大夫・士・庶任のしょさ(所作)が、すなわち真儒のすぎわひにて候。五等の所作のほかのすぎわひは、天命本然の生理にあらず>(翁問答)

 藤樹にとって、学問とは天子から庶民までひとしく学ぶべき人生の指針である。いたずらに知識をひけらかし、難しい議論をして専門家ぶるためにあるのではない。またこれを「身のすぎわひ」にして録をむさぼるなど論外だった。

 熊沢蕃山も師藤樹と同じ学問観をもっていた。彼は「集義和書」で、自己の生き方の原理として儒学を学び、これを行う者を「道者」とよび、学問を身すぎの道具とするものを、「史儒」といい、さらには「役者」「芸者」と呼んでいる。

 蕃山にとって藤樹が道者の手本だとすれば、林羅山は史儒の代表だった。林羅山も「道者にあらず」と批判されては面白いはずはない。当時ご禁制であった切支丹と結びつけることで、世の覚えのめでたい蕃山を、朱子学の天敵である陽明学とともに、この世から葬り去ろうとしたのだろう。

 5代将軍将軍綱吉(1646〜1709)は林家の朱子学に傾倒し、陽明学を嫌った。蕃山の幕府批判はさらに鋭くなり、綱吉の逆鱗にふれた蕃山は、ついに1686年の幕府令で下総国古河藩主松平忠之預かりの身になった。そして幽閉されたまま死を迎えた。


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