橋本裕の日記
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孔子は国を治めるには二通りのやりかたがあると考えた。上に立つものが武力と刑罰で民を従わせる「覇権」の方法と、徳の力で民を感化し、すすんで国造りに協力させる「王道」である。
孔子は「王道」によって国を治めるのがよいと考えた。王道を実現するために必要なのは「仁」「義」「礼」「智」「信」である。儒教ではこれを五徳と呼んでいる。為政者にとってとくに大切な徳は「仁」である。
白川静さんの「常用字解」には、「仁」という文字は人が絨毯のうえに腰を下ろして休んでいる姿だと書いてある。体をくつろがせて、あたたかく心が和んでいるというのが、「仁」のもとの意味らしい。孔子はこうして人々がくつろいでいる「仁政」を政治の理想の姿だと考えた。
現実の政治は覇道と王道の中間にあるものだが、為政者は覇権主義にかたむきがちな政治を、いかに王道に近づけるかに心を用いなければならない。こうした孔子の思想は儒教とよばれ、やがて中国の歴代の王朝の官学になった。
官吏を門閥ではなく、公平な試験によって登用する科挙の制度も孔子の思想である文治主義の産物である。官僚になるには、四書五経とその注釈書を頭に叩き込み、これを自在に引用するだけではなく、自らも民の上に立つ者として格調のある文章が書けなければならない。また面接試験では、その人物も吟味される。
王陽明もこの科挙に合格して官吏になった。そしてこの初心を地方の長官になり、軍司令官になってからも持ち続けた。彼は政治家としていかに有能であったかはあきらかである。彼が治めたいくつかの県は、今もそのままの名前で残っている。
また、彼は軍司令官として地方の反乱の鎮圧にあたった。そのときも彼は戦わずして多くの賊を投降させている。1517年、46歳の彼が江西省の賊を投降させるために布告した文章が残っているので引用しよう。
<理由もなく鶏や犬を殺すことですら忍びないのに、まして天につながる人の命はいうまでもない。もしも軽々しく殺すなら、見えない力によってかならずや応報があり、子孫に災いを及ぼすであろう。それなのに何を苦しんでこれを行なおうとするのか。・・・ああ、おまえたちはみなわが赤子であり、私はおまえたちを救うことができないで殺すことになるのか。痛ましいかな、痛ましいかな。ここまで言葉を述べて思わず涙がこぼれる>(全書巻16)
こうした情愛の籠もった布告文を見て、多くの賊が戦わずして投降した。陽明は投降した賊に対して寛容だった。ときには酒や食料を与えてもてなしたという。これを聞きつけて、さらに多くの賊が下ってきた。こうして陽明は賊を平定した。
陽明の政治家として優れているところは、なぜ賊がはびこるのか、その根源を問いつめて、結局それを悪政の結果であると考えたことだ。彼は産業を振興することによって民生を安定させ、人々の将来を考えて教育を充実させた。民衆は陽明を仁政を歓迎し、これによって犯罪や反乱も減った。
陽明は権威的な格法主義で精神の自由を圧迫する朱子学に批判的になっていた。それは朱子学を官学とする現在の体制に対する批判でもあった。科挙の制度を用い、一見文治主義を装っているが、その本質は孔子が嫌った覇権主義そのものではないか。
陽明の多くの弟子達も、このことに気づいていた。しかし、科挙の試験に合格する為には、朱子の説に逆らうわけにはいかない。このころ科挙の試験に「心学」という問題が出た。これは陽明の「聖人の学は心学である」という主張を批判させるためだった。門人のなかには答案を書かずに試験場を退出した者もいた。
朱子学から逸脱した陽明の思想は危険思想とみなされ、彼の経世家としてのすぐれた業績も中央では評価されることはなかった。帝位にあった武宗は自分に阿る8人の宦官たちを重用し、これを諫めた臣下は獄につながれたり、殺されたりした。こうして有能な閣臣たちの多くは閣外に去った。
武宗が死んで、あとを継いだ世宗も無能であることにはかわりなかった。それでも陽明は長年の功績が認められ、世襲貴族(伯爵)の地位を与えられたが、それ以上の評価は与えられなかった。陽明を大臣にして国政に当たらせるよう進言する声が上がっても、世宗はこれに耳を傾けなかった。そして当時実権を握っていた桂萼を中心とする陽明に敵対する勢力の掌の上で安逸をむさぼっていた。
そうしているうちに、こんどは広西省で反乱が起こり、国軍を破り、手に負えなくなった。陽明はこの頃、結核の症状があらわれはじめ、心身の衰弱を理由に辞職願いを出したが、世宗はこれを許さなかった。そればかりか、桂萼の進言を容れて陽明に賊を平定するため遠征するように命令した。1527年9月、56歳の陽明は数万の兵を伴って、いやおうなく長い遠征の旅にでた。
病をおして広東省を通り、広西省に着いた陽明は、さっそく現地を査察し、12月1日に上疏文をかいた。その中で彼は、乱が起こった原因を為政者の悪政だとし、賊として立ち上がった多くの民衆は失政の犠牲者だと断じている。そして首謀者の二人も許すべきだとして、次のように続けた。
<二人はもともと悪名があったわけではないから寛恕すべき者である。両省の財を使い尽くし、三省の兵を動かして、男は耕作ができず、女は織布ができず、数千里の内は騒然として、塗炭の苦しみに陥ること、もう二年になる。この二人の罪を許し、彼らが改心する道を開いてやるべきである>
投降の呼びかけに、首謀者の二人は自らを縄でしばって投降した。陽明は彼らを杖で打っただけで許した。そして今度は彼らを和平の使いにして、他の賊にあてらせた。こうして前任者が数万の兵を失い、厖大な戦費を使ってもやりとげなかったことを、ほとんど戦らしいこともなく成し遂げた。
賊を平定した陽明に、北京の桂萼から、さらにさらに軍をベトナムへと南下させよという命令が届いたが、陽明はこれを無視した。陽明が行ったことは、この地に学校を建てることだった。そして校長に自分の門下生をあてた。再び国が乱れないように、将来に渡って民心を安定させる布石を陽明は病体にむち打って行った。
世宗はこうした陽明の功績に対して、銀五十両などを与え、その功績を賞する詔勅を手ずから下そうとした。しかし、とりまきの桂萼たちがこれに口を揃えて異議をとなえ、「征伐も撫民も失敗である。陽明は功を誇大に述べている」とそしったので、世宗も思いとどまった。
その年の10月10日、陽明の病はいよいよ重くなった。陽明は辞職願いを提出すると、さっそく故郷を目差したが、その旅の途中、11月29日午前8時に、ついに力つきて舟の中で息を引き取った。最後の言葉は、「この心は光明、もはや何も言うことはない」だった。
陽明の死後、桂萼は陽明が許可を得ずに任地を離れたことを問題にした。世宗はこれを聞いて怒り、陽明に与えられていた恩恵を停止した。咎めは陽明の家族にも及び、伯爵の世襲も剥奪され、一家は家を失って離散した。
しかし、次第に陽明を賛美する声が、地方から湧き起こってきた。各地に書院とよばれる陽明学の私立学校が建てられ、陽明の著作が弟子達によって次々と刊行された。彼を聖人として賛美する声が澎湃とわき上がり、やがて国をおおうほどになった。
1556年世宗が没したあと、陽明の名誉が回復された。新帝によって文成というおくりなが与えられ、勅命で「弱冠より屹として宇宙の人豪たり」と陽明を力強く賞賛した。そして彼の息子に再び伯爵を世襲することが許された。
伯爵については、陽明は二度にわたりこれを辞退している。いまさら世襲されても冥界の彼は喜びはしなかっただろう。しかし、彼の学問が世に広く認められ、多くの民衆によって支持され、世を変えていく光明となり得たことには満足しているに違いない。
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