橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2005年07月06日(水) 忠と孝

 儒教の根本は忠・孝・礼・仁である。藤樹は母親の孝養のために、主君を棄てて脱藩した。これは「孝」のために「忠」を破ったことになる。「孝ならんと欲すれば忠ならず」という所だが、それでは「忠」と「孝」とどちらが上なのだろう。

 「論語、子路第十三」にこんな逸話がのっている。ある人が孔子に、「私の村にはとても正直な人物がいて、父親が他人の羊を盗んだ時にそれを告発しました」と言った。孔子は、「その人物を正直とは思いません。父は子のために隠し、子は父のために隠す、これが本当の正直というものです」と答えた。

 この逸話は、「孝」の為には嘘をついてもよいといいう風にもよめる。孔子はそのくらい、孝は大切なものだと考えていた。日本人は「忠孝」と書くが、本来は「孝忠」と書くべきかも知れない。

 このあたりのことを藤樹はどう考えていたのだろうか。大洲藩を脱藩し、武士を棄てたのは「孝」のためだと書くくらいだから、当然「孝」が上だと考えていたのだろうか。実は、そうでもない。藤樹は、「それは場合による」と考えていた。

 つまり、その優先順位ははじめからどちらが上と決まっているわけではない。時と場合によるのである。いつも孝が上とは限らない。そうした硬直した教条主義ではなく、場合に応じて、柔軟に考えるべきだと藤樹は考えた。

 たとえば、「論語」の「郷党篇10」には馬屋の火事の逸話がのっている。馬屋が火事になったとき、外出先から帰ってきた孔子は、家人の安否は聞いたが、馬のことは聞かなかった。これについて、朱子は馬よりは人が大切だからであると注釈している。

 藤樹はこれについて、孔子は人より馬が上だからなどという分別で家人の安否を聞いたわけではないという。朱子がいうような上下関係からではなく、その場の自然な流れのなかで、家人の安否を聞いただけである。馬のことはすでに無事であると聞かされていたのかも知れない。

 いずれにしても、ここで強調されるべきは、そうしたこざかしい優先順位ではなく、孔子の他者を思いやる「自然な心」の発露である。秩序を重んじこれにこだわる朱子学の硬直した議論を、藤樹はこのようにして斥けた。孝と忠についても、最初からどちらが上ときめつけることはおかしいと考えたわけである。

 そうした決めつけからではなく、その状況に応じて機敏に働くのが王陽明のとく「良知」である。我々がよく生きるためには、良知にしたがい、「時・所・位」に従って、柔軟な判断を下すことが必要である。藤樹は「翁問答」に次のように書いている。

<礼儀作法は時により処により人によりかはるものなれば、一しなの礼法になづむをば、欣真落法とて大いにきらふ事なり。儒書にのする所の礼儀作法をすこしもちがへず、残る所なく取りおこなふを、儒道をおこなふとおもへるは大いなるあやまりなり>

 ところで、そもそも「忠」とはなにか。その本来の意味についても、ふれておこう。「忠」というのは、「心を尽くす」というのがその意味である。白川静さんの「常用字解」にはこう書かれている。

<「論語」には忠信(まごころを尽くすこと)、忠恕(まことと、思いやり。自分の良心に忠実であること、他人に対して思いやりの深いこと)などの語があるが、忠君(主君のために尽くすこと)という語はなく、君のためにつくすというのはのちに生まれた意味である>

 つまり、そのそも「忠」というのは、自分の心に正直であることだ。「孝」が他者との関係だとすると、「忠」は自己のありかたを問題にしている。藤樹の脱藩もこのような根源に遡れば、それは「忠」であり「孝」である。

 この両者が矛盾すると考えるのは、「忠」を「忠君」とととりちがえるからで、「忠」の本質を見ないからだ。藤樹はこのことをよく知っていた。したがって脱藩に関しては、「孝ならんと欲すれば忠ならず」などという葛藤は、さいしょから存在しなかった。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加