橋本裕の日記
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藤樹、蕃山、王陽明の三人を比べてみると、その境遇に類似点があることに気づく。いずれも主君に仕える武士だった。そして、堅苦しい封建的体制の中に身を置きながら、自己を貫き、心ならずも時代の異端児として生きることになった。
王陽明の場合は、死ぬまで組織の中に身を置いて闘い続けたが、藤樹は27歳にとき、武士に見切りをつけて、伊予の大洲藩を脱藩し、近江の小川村に帰郷している。その理由は「母に孝養を尽くしたいから」というものだった。しかし、これはあくまで表向きの理由だ。
20歳の蕃山の退藩の理由が「文武の道を極めたいから」だったように、藤樹の志も学問にあった。「聖人の道を極めること」が彼の人生の目的だった。この理想を実現するために、大洲藩はあまりに器が小さかった。
こんな逸話がある。まだ藤樹が少年であった頃、家に大洲藩の筆頭家老大橋作右衛門が来た。藩随一の知恵者で、評判の高かかった人物だ。向学の志に燃えていた藤樹少年は、隣の部屋で襖越しに胸を躍らせて、祖父と家老の会話に耳を傾けた。しかし、二人の会話は少年をがっかりさせた。「大洲藩に人なし」という思いが少年の心を淋しくさせた。
また、こんな逸話も残っている。大洲藩に京都から儒者が来て、「論語」を講じてくれることになった。藤樹は喜んでこれに参加した。ところが、行ってみて驚いた。受講する人が少ないのである。そして最後にはとうとう、藤樹だけになった。
藤樹は師に恵まれず、独学で「四書」を学んだ。勤務を終えた後、遊びもせずにひたすら学問に打ち込む藤樹を、同輩はからかった。藤樹を見て「孔子様がいらした」などとはやし立てる同輩に、22歳の藤樹は色をなしたことがあった。
「学問をするのは武士の道である。お前のような学問を理解できない奴は、いやしい下男下女と同じである」
藤樹はこの言葉を同輩に投げつけてから、自らの言葉の品のなさに気づいたに違いない。後に藤樹は大洲藩にいたころの自分を顧みて、こんな回想を残している。
<大洲藩にいたころは、人のひそひそ話にも目が覚め、足音にも驚くというぐあいで、不眠症になやまされた。床についても身も心もやすまらず、いつも緊張していた>
藤樹と言えばその人格は円満で、聖人と仰がれたほどである。しかし、大洲藩に武士として仕えていた頃は、性格に角があり、過敏で神経質だった。このころ喘息を発症しているが、これも精神的なストレスからだった。
藩主の加藤泰興は槍の名手として知られている。武断的な性格で、しかも相当に自尊心が強く、ともすれば専横が目に余り、藩士の自尊心を傷つけることがあったという。藤樹とは肌のあいそうのない人物だった。
もっとも藤樹にも武勇伝がある。祖父が郡奉行をしていたころ、賊が襲撃してきたことがあった。13歳の藤樹は祖父とともに刀を抜いて闘い、みごとに賊を撃退した。しかしこの武勇伝の蔭にも、当時の百姓達の困窮した生活がかくされている。のちに藤樹も郡奉行として、年貢の取り立てなどにあたらねばならなくなる。
当時、逃散する百姓も多かった。また、キリスト教が弾圧され、大洲藩でも厳しい取り締まりがあった。殉教者もでている。こうした社会の現状を、藤樹は権力の側に身を置きながら、割り切れない気持だっただろう。このまま武士でありながら、聖人の道を極めることができるのかと、真剣に悩んだのではなかろうか。
そして藤樹は武士の身分を棄てることを決意する。しかし、退藩を申し出るが、藩主はこれを許さなかった。このため、藤樹は決死の覚悟で脱藩した。藩主の加藤泰興は盗みをした足軽を死罪にしただけではなく、これをさらし者にしたほどの人物である。しかし、藤樹には何故かおとがめはなかった。
故郷の小川村に帰ると、藤樹は刀を売り払い、その金をもとでに酒の販売をはじめた。そして私塾をはじめ、学問の研鑽に専心することになる。そんな藤樹のもとに、大洲藩のかっての同僚達が次々と訪れ、門人になった。その中には家老の息子もいたという。
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