橋本裕の日記
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ディオゲネス・ラエルティオスの「ギリシャ哲学列伝」は、タレスに続いてソロンを取り上げている。ソロン(BC640〜BC560)はアテネの民主政治の基礎を築いた政治家で、「ソロンの改革」は高校の教科書にも出てくる。哲学者というより政治家として有名な人だ。ギリシャ七賢人の一人でもある。
BC594年にアルコンに就任したソロンは、「重荷おろし」といわれる政策を実行し、借金で苦しんでいた人々を、その負債から解放した。彼自身も彼の父親が貸し付けていた金があったが、その債権を放棄した。まず自らが放棄して、人々にも見習うように説得したのだという。こうして彼は貧しい人々の間に人望を築いていった。
当時のアテネは貨幣経済が急速に進み、貧富の差が拡大していた。市民の大半を占める中産階級である農民が没落し、富の二極分化すすみ、社会が安定を欠いていた。これを是正するために、ソロンはさまざまな改革を行った。市民最下級者にも民会出席の権利を保証し、土地の私有化を制限する法律を作ったりした。
こうした改革は当然裕福層の反発を買った。民衆は彼に僭主としての独裁権を与え、さらなる大胆な改革(たとえば農地解放のようなもの)を要求したが、彼はこれを拒んだ。彼の改革はなるべく民主的に社会を安定化させることで、貴族階級を一掃するような過激なものではなかった。その意味で良識的なものだったが、民衆からすればもの足らなくあった。
こうした民衆の不満を背景に台頭してきたのが、彼の縁者で改革の協力者でもあったペイシストラトスだった。彼はより根本的な改革を目差し、貴族階級と対抗するために自分に独裁権を与えることを迫った。そのために、自分の身体を傷つけ、政敵に襲われたという狂言も演じてみせた。ペイシストラトスの手口にソロンは危機感を覚えた。
「アテネ人の諸君、わたしはあなた方のなかのある人よりは賢いし、ある人たちよりも勇気がある。つまり、ペイシストラトスの詭計を見破れないでいる人たちよりは賢いし、またそれを知りながら、恐怖心のために沈黙している人たちよりは勇気があるのだ。私が狂っているかどうか、少しの時がたてば、町の人たちには分かってもらえるだろう。真理がみんなの真ん中にあらわれてくるそのときは」
彼の諫言は民会を動かさなかった。人々はソロンは狂っていると言った。失望したソロンはアテネをあとにして、エジプトへ逃れ、ついでキプロスへ渡った、そこからさらにリビアのクロソス王のもとに行った。ソロンのもとへターレスからミトレスに来るように誘いがあったが、やはり僭主が支配するミトレスには行きたくなかったようだ。彼はアテネの人にこんな手紙を書き送った。
「あなた方があなた方自身の卑怯のゆえにひどい目にあっているとしても、それらのことの責めを神々に帰してはならない。敵に保証をあたえて、彼らを増長させたのはあなた方自身なのだから。そしてそれゆえに、あなた方はいま不幸な隷属状態におちいっているのだ。
あなた方の一人一人は狐のように用心深いが、全部が一緒になると、あなた方はまるで分別がないのだ。甘い言葉で誘う舌に心を奪われて、実際に行われていることには何一つ注意していないのだから」(あるアテネ人へ)
「すなわち彼は、民衆指導者として出発したのです。ついで彼は、自分で自分の身体に傷をつけておいて、民衆法廷に姿を現し、この傷は敵対者から負わされたものだと大声で叫んで、自分に四百人の若者を護衛兵としてつけてくれるように要求しました。そこで市民たちは、わたしの言葉には耳をかさずに、それらの若者を提供してやったのですが、この者どもは棍棒を携帯していました。そしてその後で、彼は民主制を破壊してしまったのです。かくて、わたしがアテネ市民のなかの貧しい者たちを農奴の状態から解放してやろうと努力したことも実際無駄になったわけです。いまや市民すべてが、ペイシストラトスという一人の主人に奴隷として仕えている始末ですから」(エピメニデスへ)
一方、アテネに独裁制をしいたペイシストラトスは、ソロンに手紙を送って、帰国をうながしている。これに対する、ソロンの答えも、あわせて紹介しよう。いずれも、ディオゲネス・ラエルティオスの「ギリシャ哲学列伝」からの引用である。
「アテネ市民は、貴殿が彼らに定められた法規に従って生活することをわたしは認めておりますし、彼らは民主制下にあるときよりももっとよく治められているのです。というのは、わたしは何人にも分を超えた振る舞いを許さないからです・・・貴殿がわたしの友人の一人になることを望まれるなら、貴殿は最高の待遇を受けられることでしょう。どうか、われわれのことで、貴殿が祖国を失われることのないようにしていただきたいものです」(ペイシストラトスからソロンへ)
「アテネ人にとって、一人の人間に支配されたほうがよいのか、それとも民主制の下で暮らすほうがよいのか、われわれ二人のどちらも、自分の考えによって決めることにしましょう。わたしは、貴君がすべての僭主のなかですぐれた方であることは認めていますが、しかしアテネへ再び帰るのは、私にとって適当でないと見ております。わたしは、アテネ人に平等の市民権を与えましたし、また僭主となる機会があったときにも、自分でそれを断っておきながら、今になって帰国して、貴君がなさっていることを是認するとしたら、ひとはわたしを非難するでしょうから」(ソロンからペイシストラトスへ)
ソロンは独裁者のもとに生きている人々は「そろばんの小石」のようなものだと語っている。たとえその生活が保障されていても、棒にしばられて独裁者に操られる小石の生活は、自由を重んじる彼には屈辱でしかなかったし、アテネの人々がそのように暮らすのを見ることも堪えられなかったのだろう。
彼はどのようにしたら公正な社会が実現できるかという問に、「不正な目にあっていない人たちが、不正な目にあっている人たちとおなじような憤りを感じるならば」と答えている。2千5百年を経て、ソロンのこの言葉は私の胸に響いてくる。
彼はあるべき社会を探求するにあたり、暴力ではなしに言論による自由や真理(ロゴス)を重視する立場に立っていた。この意味で、彼も又タレスと並ぶ哲学者だった。この哲学はやがて彼の祖国アテネに受け容れられる。そしてペリクレス(BC495〜BC429)がさらにこれを徹底させて、アテネ民主制の黄金期を実現することになる。
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