橋本裕の日記
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6月1日(水)に放送されたNHK「その時、歴史は動いた」は、「民を救った義士たちの物語〜宝暦の治水・薩摩藩士の苦闘〜」という題で、江戸時代に薩摩藩の武士たちによって成し遂げられた濃尾平野の大治水工事を描いていた。
薩摩藩に幕府からこの「お助け普請」の命令が下ったのは宝暦4年(1754)の正月のことだという。藩士たちが憤り、「幕府と一戦すべし」という強硬論が出る中で、家老の平田靱負(ひらた・ゆきえ)は「武士は民をたすけるもの。他国の民であっても、難儀している者たち助けるのが武士の本分ではないか」と諭し、自ら総奉行となって尾張・美濃へ下る決心をする。
こうして1000人近い薩摩武士が遠く離れた異国へと旅だった。ところが彼らを待ちかまえていたのは横暴な幕府の監督官たちと、過酷な労働環境だった。疫病が流行し、事故が続発し、一年半にわたる苦闘のすえ工事は完成するが、80名以上の薩摩藩士たちが犠牲になった。
この中には、幕府に対する抗議の切腹で死んだ28名もふくまれている。平田靱負もまた工事が終わり、武士達を薩摩に帰した後、すべての責任をとって切腹した。それは宝暦5年の5月25日のことだという。
地元の人々は、彼らのことを「薩摩義士」として讃えた。そして特に難工事だった木曽川と長良川の合流地点の川を埋めて作った堰のたもとに「治水神社」を建てた。今は油島と呼ばれているその地点に、平田靱負をはじめ、犠牲になった80数名が祀られている。
昨日の土曜日、私は妻を誘って、その神社に参拝した。神社は木曽三川公園のすぐ隣である。木曽三川公園へは家族で何度か遊びに来ていたが、その隣の神社まで足を伸ばしたことはなかった。
神社の境内から鳥居を出て、堤防の方に松並木の参道が続いていたので二人で歩いた。薩摩武士がこの堤防(切り堰)を作ったのは冬の最中だったという。木曽川の上流で切り出した巨岩を船に乗せてここまで運び、船ごと川底に沈め、自らは冷たい川を岸まで泳いだが、濁流に呑まれ、体力尽きて死ぬものもいたということだ。何ともすさまじい工事だった。
堤防が完成したあと、平田靱負は薩摩から取り寄せた千本の日向松を堤防に植えた。自分たちがいなくなっても、松が堤防を守ってくれると言い残したそうだ。彼らが植えた樹齢250年の松が見事に繁っていた。
いまその松は地元の人たちに「偲ぶ松」「愛し松」「望み松」などという名前がつけられて大切に守られている。そしてその堤全体が「千本松原県立自然公園」になっている。治水神社では毎年薩摩義士の偉業を讃えてお祭りも催されているらしい。
参道の松並木の緑は鬱蒼としていて、大木の上に、五位鷺が巣を作っていた。長良川がゆったりと流れ、海鳥たちがその上をかすめていく。私たちの他、人気のないその清浄な空間で、私も又薩摩義士たちの偉業を偲んだ。
薩摩藩が江戸幕府打倒へ動くのは、この宝暦の治水から百年後のことである。幕府の思惑はこれによって薩摩藩を弱体化させることだった。たしかにこの事業は薩摩藩に莫大な借金と犠牲者を生みだした。
しかし、これによってかえって薩摩藩は結束した。「幕府憎し」の声とともに、「民の為に」という平田靱負の遺訓が、ついに日本の国に革命をもたらすことになった。その事に思いを致しながら、私たちは緑の千本松原に別れを告げた。
(参考サイト) http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.html
http://www.city.kaizu.lg.jp/syakaikyouikubunkaka/ tisuiashiato.jsp
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