橋本裕の日記
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2005年06月04日(土) 生きがいの哲学

 前にも書いたように、人が何に「生きがい」を持つかは、他人の迷惑にならない限り自由である。しかし、この「自由」がくせ者で、かえって生きがいが見つけにくいということも起こってくる。

 ライ病患者や死刑囚の場合は、「自由」が極度に制限されている。そしてそうした中で、自分の人格を根底から変え、人生観をも変えるような「生きがい」に巡り合う。そして、その「生きがい」に出合って、自分がほんとうに「自由」を得たと思い、感激するわけだ。

 健康は病院にある、と誰かが書いていた。遊園地や体育館ではなく、なぜ、健康が病院にあるのか。それは、健康とは単に「病気でないこと」ではないからだという。たとえ病気になっても、それを克服できる力、病に対する「抵抗力」こそ「健康」というものである。そう考えれば、病気に対して果敢に抵抗している病院にこそ、ほんとうの「健康」が存在するという逆説もわからぬではない。

 同様のことは「自由」についても言えるだろう。「自由とは、不自由に対する抵抗のなかにある」という。たとえば戦前のファシズム体制の中で、軍部の横暴に果敢に抵抗した人たちがいた。自由はそうした圧政のただ中に生まれる。

 それでは「平和」とは何か。それは単に「戦争がないこと」ではない。戦争へと傾きつつある時流に対して、それを阻止しようとする意志や行動の中にある。そして、そのような実践のなかに「生きがい」というものが生まれてくる。ホワイトヘッドの言葉を、神谷さんの「生きがいについて」から孫引きしよう。

<ここで平和と言っているのは単なる無感覚の消極的な概念ではなく、魂の「生命と動き」の積極的な感情である。それはある深い形而上的な洞察によって感情がひろくされることを意味する。・・・

 人類は高度に発達した精神を持っているため、ただ生存を享受してたのしんでいることはできなくなり、そのたのしみには必ず苦痛や悲劇がからみあっている。平和(の体験)はこの悲劇に対してつねにいきいきとした感受性を保ちつづけさせ、現実のレベルを超えた理想を志向せしめる>(思想の冒険)

 こう考えてくると、「生きがい」というものが、たんに享楽的なものではなく、むしろ人生や世界に対するアンチテーゼを含むものだということがわかる。それは何者かへの関わりの中で生まれる手応えであり、戦いであり、はりあいである。

 だから、「生きがいの発見」とは、そのように、自分が全身全霊でもってぶつかって行くことができる対象を見つけることである。そうした前向きで、ひたむきな精神のありかたが可能なとき、、その人の内部で「生きる意味」が納得され、「生きがい感」が生まれる。そのような「生きがい」を求め続けて、私たちは人生を旅するわけだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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