橋本裕の日記
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| 2005年05月31日(火) |
娘に読んで欲しい一冊の本 |
大学生の次女が今年の2月に、二十歳になった。その記念に「何か欲しいものはあるか」と訊くと、「お父さんが私にいちばん読んで欲しいと思っている本をプレゼントして」という答えが返ってきた。こんな返事を期待していなかった私は、とてもうれしかった。
さて、本の選定だが、これも楽しいことである。古今東西の古典をはじめ、現代小説まで、読書量においてはだれにもひけをとらないと自負している私だから、「娘に読んで欲しい本」のリストはいくらでも思い浮かぶ。
たとえば「聖書」である。私自身、日本聖書教会の聖書二冊(口語、文語)の他に、中央公論社「世界の名著」のものなど、5種類ほど手元に置いてある。私はキリスト教徒ではないが、若い頃から現在まで、幾度となくこれを手にして、心の栄養にしてきた。娘に読んで欲しい本のまずは筆頭である。
しかし、「聖書」というのはあまりにもメジャーな存在である。私が与えなくても、そのうち娘が欲しいと思って自分で買うだろう。この「聖書」の思想を、もっともよく解説していて、しかも宗教くさくなく、生涯にわたり何度も手にしたくなる本はないだろうか。
そうそう考えて、私は書棚の前にたたづみ、一冊の本を取りだした。神谷美恵子さんの「生きがいについて」(みすず書房)である。これこそ、私が娘に読んで欲しい本の筆頭としてふさわしい本ではないかと思った。
この本は美智子皇后の愛読書でもあるときいている。美智子さんが妃殿下となられて、いろいろ苦労され、精神的にも追いつめられているとき、この本を読み、実際著者の神谷さんにも会われ、前向きに生きる勇気を与えられたという話を、何かで読んだ記憶がある。
神谷さんはキリスト教徒だが、この本の中には「聖書」の引用は一切ない。そのかわり、多くの思想家や文学者の綺羅星のような文章にまじって、戦争で散った青年の手記や、らい病患者の文章がひっそりと効果的に引用されている。
人生に大切なもの、それは「生きがいだ」 と筆者はいう。それでは、生きがいを失った人、絶望の中に生きている人は何を求めているのだろうか。
<こういう思いにうちのめされているひとに必要なのは単なる慰めや同情や説教ではない。もちろん金や物だけでも役に立たない。彼はただ、自分の存在はだれかのために、何かのために必要なのだ、ということを強く感じさせるものを求めてあえいでいるのである>
筆者は「人間の精神の力ほどふしぎなものはない」と書く。そして「精神の固有の世界は、現実からはなれたところに身をおくことによって、はじめてうまれる」と書いている。それは新しい「心の目」を見開くことでもある。筆者は明石海人の次の詩を引いている。
人の世をはなれて人の世を知り 骨肉をはなれて愛を信じ 明かりを失っては、内にひらく青山白雲もみた 癩は天啓でもあった
筆者は少女時代をスイスで暮らしたという。その後帰国して、津田塾に学び、19歳の時、癩療養所多摩全生園を訪れている。そこでキリスト教徒の叔父にたのまれてオルガンを弾いたのだという。彼女はこののち結核になり、病棟で絶望の日々を送ったこともある。しかし、その病を克服して、アメリカに留学し、コロンビア大学大学院でギリシャ文学を学んだ。
英語は言うにおよばず、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語に堪能だった彼女が、25歳の時、医学の道に行くことを決意したのは、19歳の時に癩患者と接した体験が根底にあったのだという。
<ひとが仕事を選ぶ場合も、もし生きがい感を大切にするならば、世間体や収入よりもなるべく自分でなくてはできない仕事をえらぶのがよい>
彼女はコロンビア大学の医学部で学び、帰国して東京大学精神医局に入局、その後、長島の愛生園で癩患者を相手に精神科の診療を行った。これには多くの人が反対したようだ。しかし、彼女は少女時代からの夢に向かってまっすぐ歩き続けた。
臨床のきびしい現場に身を置きながら、しかも古今東西の思想を深く咀嚼しながら紡がれたのが、この「生きがいについて」という著作である。この本の中で、著者自身の体験と思索がみごとに結合している。しかもそれを、やさしい言葉で自在に表現している。 この本の最終章は「現世へのもどりかた」と題されている。この世から少し浮き上がることで得られた精神体験の深まりを、日々の実践のなかでどう生かすか、実は「いきがい感」を実感するにあたり、これが一番大切なことである。
<歓喜の体験のなかでつかんだものを原理として、現実の世界でそれに忠実に生きていくために、自己の道をえらびとって行くのである。その消息はブーバーの『われと汝』に、目をみはるほど劇的な表現で描かれている>
日常を離れて「悟り」を得た後、もういちど日常生活へ戻ってその精神体験をを生かすことを、仏教では「色即是空。空即是色」という。神谷さんはこうしたとても深い人生の真理を、多くの人々の手記を引きながら、わかりやすく実感のこもった文章で表現している。
それというのも、彼女自身戦争を挟んで悩み多き時代を自ら生き抜くことで、苦闘の果てに発見し掴みとった真実だからだろう。ちなみに神谷さんはよき医師であり、よき教師であると同時に、よき妻であり、よき母でもあったという。
残念ながら、この本はいまだに私の手元にある。数日後家族でデパートに行ったとき、次女が「やっぱり、靴を買ってもらおうかな」と自分のみすぼらしい靴を眺めて、前言を取り消したからである。それもよかろう。無理に進めてもろくなことはない。いつか適当な機会をみて、二人の娘に私のこの愛読書を送ってやりたいと思っている。
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