橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
ストア派の哲学者は、プラトンの中心学説である「イデア」の存在を認めなかった。これはアリストテレスもそうだったが、この点でストア派はさらに徹底している。それでは何故、彼らはイデアを実在しない虚妄とみなしたのだろう。
それは彼らがこの世のあらゆる出来事はお互いに関連して生起しているという縁起説を採用したからだ。そしてお互いがお互いに依存している相互依存の世界では、プラトンやアリストテレスが言うような実体というものは存在しない。
<最初の出来事は、その出来事の原因であり、すべての物事はそうした仕方で相互に結合しているから、宇宙の内で生じる物事で、何か他のものが必ずやそれに随伴しそのものを原因としてそれに接合している。すべて生成するものには、何か別のものが、それを原因として必然的にそれに依存するという仕方で随伴するのである>(フォン・アルニム「初期ストア哲学資料集」)
縁起説は仏教の根本学説でもある。釈迦は菩提樹のもとでこのことを悟った。そしてすべての存在は実体を持たないのに、これを実体だと考えることから人間の奴隷状態が生じていると考えた。釈迦はこうした幻想から自由になり、奴隷状態から解脱することで新しい人生が開かれると考えたわけだ。これはプラトンのイデア論を批判したストア哲学の立場とほとんど変わらない。
ソクラテスは「無知の知」を主張し、相手との対話によって、社会に通用し、相手が真理だと信じているものが虚妄に過ぎないことを明らかにした。ストア派はこうしたソクラテスの精神をうけついでいる。ソクラテスがその巧みな弁論を用いて攻撃したものを、ストア派の哲学者は「縁起論」を用いて攻撃している。そしてこれはまさしく釈迦が用いた方法でもある。
ゼノンなきあと、この人なくしてストア哲学なしと言われたクリュシポスは、車が回転するためには二つの原因がなければならないと考えた。一つはその車を押す外力である。しかし、この外力だけでは車は回転しない。もっと本質的なことは車が丸い形をしているために車が持っている「回転能力」である。
クリュシポスはこうした例をつかって、物事が生じるには外的な「補助要因」と、そのもに由来する「主要な要因」が必要であり、こうした二種類の原因が働き合って様々な現象が生起することを説明している。
仏教の「縁起説」の場合も、そのものに内在する「因」に外的な原因である「助縁」もしくは「縁」が働くことで、ものごとが生起すると説いている。この点でも、ストア哲学の縁起説は、仏教のそれとよく似ている。
ストア哲学の自然観は、現代科学とも相性がよい。彼らはヘラクレトスに従って「万物の根源は火である」と考えたが、これは「万物の根源はエネルギーである」とする現代物理学の理論を先取りするものだった。
さらに彼らは水面を伝わる波の運動を研究し、「音」もまた空気を振動させて伝わる3次元の波動であることを正しく洞察している。こうした洞察が生まれる背景には、「自然は物質からなりたち、それらの物質はおたがに相互作用してあらゆる運動をつくり出す」という彼らの合理的な自然観が根底にあったからだろう。
物事にはすべて原因があるということ。そしてこの世で起きることはすべて、この原因と結果の複雑にからまった長い連鎖であるということ。このことを正しく認識すれば、我々は我々の将来をも予測することできる。ストア派の哲学者はさらにこうして世界が無限に創造されると考えた。そしてその根本にある第一原因(神)を「創造する理性」とよんだ。
<われわれストア派は、第一の一般的な原因を求める。われわれは、この原因は何かと尋ねる。答えは「創造する理性」、すなわち神である>(セネカ「書簡」)
<宇宙よ、あなたにとってよき調和をなすものは、すべてわたしにとっても調和あるものです>(マルクス・アウレリウス「自省録」)
ストア派はこの宇宙を変化し創造されるものとして捉えている。そしてプラトンやアリストテレスのように天上界と地上界をわけなかった。宇宙は単一の原理(ロゴス)の産物であり、「創造する理性」の産物である。そして人間をはじめ生きとし生けるものも又、これによってこの世に生み出され、やがて宇宙の塵に還っていく聖なる存在だと見なされた。この宇宙の調和にしたがうことが、「善き生」だとされたのである。
|