橋本裕の日記
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2005年05月21日(土) 死者たちと交わるたのしみ

 古代ギリシャの人々は若いときに身を清めて神殿に出向き、「最善の生を送るのに何をしたらよいか」と神に問う習慣があった。これによってソクラテスは「汝自身を知れ」という有名な神託を得た。ディオゲネスのそれは「世の中に流通しているものを変えよ」ということだった。

 フェニキア人の商人だったゼノン(BC333〜BC261)が受けた神託は、「死者たちとまじわるように」ということだったという。ゼノンはこれを「古人の書物から学べ」と解釈したのだという。そしてクセノポンの「ソクラテスの思い出」という書物にであった。

 こうして哲学に興味を持ったゼノンは、船が難破してたどりついたアテネで、本屋の主人にすすめられるままクラテスの弟子になった。彼はのちに「船が難破したのは、今になってみると、私にはよい航海だったのだ」と語り、運命に感謝したという。

 仏教に「逆縁」という言葉がある。私の場合も哲学書など読み始めたのは、県立高校の受験に失敗し、仏教系のミッション・スクールに入学したことがきっかけだった。1年生の仏教の授業で、この「逆縁」という言葉を教えられた。

 県下一の進学校だった県立高校に合格していたら、私の人生はまた別のものになっていただろう。高校時代からデイオゲネスに惹かれ、カントやショーペンハウエルなどの哲学を読みあさり、現在もまたこうした文章を書いていることはなかったかもしれない。(自伝「少年時代」参照)

 デオゲネスは神託に従って贋金をつくり、故郷を追放された。しかし、これがきっかけでアテネにきて哲学者になった。このように、哲学者の多くは何かの不幸な出来事を経験し、これをきっかけに哲学という異次元の空間に飛び込んでいっている。

 ゼノンはアテネのアゴラ(広場)を囲む柱廊(ストア)を歩きながら哲学の講義をしたという。このため彼の一派は「ストア学派」とよばれるようになった。ゼノンに限らず歩きながら思索をするというのは古代の哲学者のスタイルだったようだ。アリストテレスも学園を散歩しながら講義をしたので、彼の場合は「逍遥学派」と呼ばれた。

 ゼノンは弟子たちに「哲学」というものを理解させるために、まず左手を広げたまま突き出し、そして握ってみせたという。私たちはまず、生きるためにこうして世界を掴む(認識する)わけだ。ゼノンによればこれが通常の知ということだった。

 つぎに、ゼノンは右手を伸ばし、これで左手の拳を包み込むようにして握った。これによってゼノンは世間に生きるために忙しく動いている私たちの思考活動そのものを、もう一段高いレベルから思索し把握するという高度な知の存在を示そうとした。

 ただ生きることにあくせくするのではなく、そもそも「生きるということはどういうことか」を考えてみる。こうしたメタ思考がすなわち「哲学」の本質であることを、ゼノンは両手を使ってわかりやすく説明したわけだ。

 こうしたメタ思考によって、私たちは自分の人生をあたらしい次元からとらえなおすことができる。それはまた、この世のただ中に生きる自分を、もう一段高いレベル、あえて言えば、宇宙の一点から見下ろし、把握し直すということだ。

 そのとき、おそらく、人生の様子が大きく変わって見える。何気ない日常の景色が、あたらしい光りの下で、まるで別物のように甦ってくる。アリストテレスはこうした体験を「存在驚愕」(タウマゼイン)と呼んだ。

 プラトンは哲学をすることの意味は、「だれもが持っていながら眠らせている心の中の器官や能力を、向け変える(ペリアゴーゲ)ことだ」と、「国家」の中で述べている。いくら知識を身につけて、博識の学者になっても、ペリアゴーゲを体験せず、「この世をみる見方の学び直し」ができていない人には、人生の美しい実相はみえてこない。人生の美しい実相とは何か。それはたとえばこのような世界である。

<ユリアヌスの眼には、青空も、雲も、木漏れ日も、葉のそよぎも、溢れる泉も、そこに、そうしたものがあるということだけで、何とも説明のできない不思議なことのように見えた。空の青さの何という不思議さであろう。木漏れ日の恵みに似た明るさは、また何という不思議さであろう。なぜそよ吹く風があり、自然を輝かしく育てる太陽の光があるのか。>(辻邦生著「背教者ユリアヌス」より)

 メルロ・ポンティは「ほんとうの哲学とは、この世をみる見方を学び直すこと」(知覚の現象学)と書いているが、東洋流に言えば、「空」の世界に入り、そこから地上に帰ってくるわけだ。こうして人の魂があらたな世界へと向け変えられる。そのとき、あたりの何でもない風景が見違えるように美しく詩的に感じられるわけだ。

 「空」の世界を知らない私たちは、地上のさまざまなものに囚われて、執着の人生を送っている。そうした私たちも「逆縁」によって、永遠の知恵やいのちにふれるあう可能性はのこされている。「汝自身を知れ」「死者たちと交われ」という神託は、こうしたすばらしい叡智の世界へと私たちの魂を誘う促しであろう。


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