橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
BC338年にギリシャ連合軍はマケドニアに負けている。その後も反乱を起こしたが、結局はアレキサンダー大王に力でねじ伏せられてしまった。このときディオゲネスは70歳を過ぎた老人だった。
アレキサンダー大王(BC356〜BC323)はアテネを征服したが、これを焼き滅ぼそうとはしなかった。いつの場合でも、恭順の意を示した人々には彼は寛容だった。ギリシャ人はたちまちアレキサンダーを自分たちの偉大な王として迎え入れた。これまでさんざん悪口を言って敵対していた政治家や哲学者も、こぞって彼を賛美しはじめた。
そうした中で、ディオゲネスはあいかわらず樽の中で我関せずの気儘な生活を楽しんでいた。アレキサンダーはこの風変わりで高名な哲学者が自分に会いに来るのを楽しみにしていたが、部下を何度さしむけても「わしは昼寝で忙しい」と言って動こうとしない。仕方がないので、自分から会いに行くことにした。
ディオゲネスは樽の近くでひなたぼっこをしていた。軍勢を引き連れてやってきたアレキサンダーを見ても、寝そべったまま居ずまいをただそうともしない。以下、二人の会話を再現してみよう。
「私はアレキサンダーです。ギリシャはいま完全に私の手の中にあります。アテネの人々は私の姿を見ただけで震え上がります。あなたは私が怖くはないのですか」
「君は善い人かね。それとも悪人かね」
「私は善人です。私は父からたくましく生きることを学びました。そして師アリストテレスから、善く生きることをを学んだのです」
「私は善人を恐れない。君が善人だとしたら、君を恐れる理由はないだろう」
アレキサンダーは老哲学者の言葉に感心した。ディオゲネスは相変わらず寝そべったままだったが、それをもはや無礼とも感じなかった。
「あなたのような智者に会えたことを嬉しく思います。つきましてはお礼をさせてください。何をお望みでしょうか。私に出来ることなら、何でもさせていただきましょう」
「それではひとつ頼み事をしよう。わしの前に立たないでほしい。君はわしから大きな楽しみを奪っている。わしの望みは日差しと昼寝だ。日の光を私に分けてくれないかね」
「これは失礼をしました。それにしても、無欲な方ですね。あなたは私がアテネで出会った尊敬できるただ一人の人です。それでは昼寝の前に、ひとつだけ質問させて下さい。あなたは私のことをどう見ていますか。本当に私は善人なのでしょうか」
「わしは人物をいつも行動で評価している。君は多くの人を殺して、そのあげくギリシャを征服した。このあと、何をするつもりだね。まだ人を殺し続けるつもりかね。君は人殺しをつぐなう以上の善行がこの世にあると考えているのかね」
「私がギリシャを征服したのは、ギリシャに平和をもたらすためです。さらに私は世界を征服するでしょう。地の果てまでも軍隊を進め、世界に平和をもたらします。それが私に与えられた使命だと思っています」
「君は平和のために戦うという。しかし、戦いは戦いを生むだけだ。アテネはそうして滅びた。このままでは、君もいずれ滅びるだろう。平和ならここにあるよ。何もしないこと、それが平和だ。どうだい、君もその鎧を脱いで、私と一緒にひなたぼっこをしてみないかね。一緒にキャベツを川で洗って食べてみないかね」
アレキサンダーはディオゲネスの言葉をしばらく考えた。ディオゲネスとならんで毎日はだかでひなたぼっこをするのも悪くはないなと思った。平和は心の中に実現するものであって、戦争によってはもたらされないという思想は、師アリストテレスからも聞いていた。
「私は王としてこの世に生まれました。これが神々が私に与えた私の運命なのです。しかし、生まれ変われるものなら、私は哲学者に生まれ変わりたいものです。そうすれば、ディオゲネスよ、私もきっとあなたのように長寿を全うし、平和でやすらかな生き方ができるでしょう」
アレキサンダーは淋しく笑ってディオゲネスを見つめた。ディオゲネスはもうなにも言わず、だまって目を閉じた。そうすると急に眠くなった。ディオゲネスが目を覚ましたとき、もうアレキサンダーの姿はなかった。
言い伝えでは、ディオゲネスはアレキサンダーと同じ日に死んだという。そのときディオゲネスは90歳を超えた老人だったが、アレキサンダーはまだ32歳の青年だった。冥界でなかよく並んでひなたぼっこをしている老人と青年をみかけたら、この二人かも知れない。
|