橋本裕の日記
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2005年05月11日(水) 灯台守の歌

 私が幼かった頃、日本はまだ貧しかった。しかし、こころは豊かだった。人々はお互いにささえあい、助け合って生きていた。銭湯に行くと、近所のおじさんが背中を流してくれた。地震があると、隣のおじさんがパンツ一枚で家の中に飛び込んできてくれた。

 貧しさ故の喧嘩やねたみやそねみもあったが、こうしたやさしさのなかで育った者は、究極的に人間や社会を信用する。人生はうつくしく、人間は基本的に善なる存在だと理屈抜きで信じるようになる。

 しかし、今や時代は変わった。経済的に豊になった分だけ、人々の心のふれあいはなくなった。子供たちはもはや隣の家のおじさんに背中を流して貰うこともないだろう。そればかりか、自分の父親や祖父母の背中を流すことはなくなった。

 助け合いよりも競争を重んじるこうした殺伐とした経済市場主義の社会に育てば、人間は利己的になるしかない。人を信じるよりも、人を競争相手としてしか考えない、心の貧しい人間がちまたにあふれてくる。

 そうした人間がのしあがり、いたるところで政界、経済界、ジャーナリズムを支配するようになると、ますます社会はとげとげしくなり、そのやさしさを奪われていく。儲け主義が世にはびこり、人々は自分を見失い、長いものに巻かれて卑屈になる。

 こうした暗澹とした世の中で、私たちはどこに救いを求めたらよいのだろうか。そんな憂鬱な物思いにふけりながら、いつものようにHPを更新していると、ふと、「喜びも悲しみも幾歳月」という歌が浮かんできた。

 おいら岬の、灯台守よ
 妻と二人で、沖行く船の
 ぶじを祈って
 灯をかざす、灯をかざす・・

 星を数えて、波の音きいて
 共にすごした、幾年月の
 喜び悲しみ
 目にうかぶ、目にうかぶ

 ふとくちずさんでみる。むかし、灯台守にあこがれたことがあった。離れ小島の灯台に棲みつき、暗夜を航海する船に、灯火を絶やさず投げ続ける。その孤独感、その使命感がなんともいい。「一隅を照らす」という言葉がある。灯台守はこの言葉にぴったりだ。

 灯台守といえば、インターネットの海に浮かぶたくさんのHPの中にも、ときどき美しい光りを投げているものがある。たとえば、最近私はある人のサイトで「つかの間の旅人」という素敵な詩にであった。私がひそかに、訪れて、暖をとっているサイトのひとつだ。

引用はじめ−−−−−−−−

 つかの間の旅人 

儚い、いまにも消えていきそうなサイトほどなぜか気になる。
いつの間にかリンクも切れ、ネットの世界から消えていってしまったひとたち。
いま何をみつめ、何を思って生きているのだろう?
ネットの世界に幻滅し、虚しさをおぼえ、さらにさびしい世界へと旅立って行ったのかもしれない。
無言のままに行過ぎ、無言のままに想いを交わし・・・。
見知らぬはずのあのひとたちの横顔が、いまぼくの胸に深く刻まれている。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~h-inoue/diary.html

−−−−−−−引用終わり

 暗夜にほのかに光る灯台をみるとうれしくなる。その灯台に灯がともっていると、ほっとする。いつまでも、その美しい灯が消えないことを願わずにはいられない。

 私は世の中を変える希望の灯はこうしたインターネットの世界から生まれるかも知れないと思っている。そして私も又、ひとつのささやかな灯火として、この世界に存在したいと思っている。


橋本裕 |MAILHomePage

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