橋本裕の日記
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2005年05月09日(月) こころの羅針盤

 新しい職場に変わって、10年ほど前に別の高校で同僚だったA先生と再び一緒になった。その人が「橋本さんのあの話は強烈に印象に残っていますよ」という。どうやら私が春休みを前にした三学期の終業式のときに全校生徒の前で話したことらしい。

 教務主任が出張で、私がその代理として、何か講話をせよということになった。そこで「こころの羅針盤」という題で、高校生の頃に出会ったデカルトの話をした。人生を旅にたとえ、その旅で迷わないためには「羅針盤」が必要だという話である。

 そうした話をした後、「君たちはその大切な羅針盤を持っていますか? 私は持っていますよ。それはここにあります」そう言って、胸の当たりを手で押さえた。そして、やおら上着の内ポケットから、古ぼけた一冊の岩波文庫を取りだした。それが私が高校生の頃から愛読し、人生の指針としてきたデカルトの「方法序説」だった。

 自分でも少し演出過剰かなと思った。A先生もこれを覚えていて、「なんというキザな先生かと思いましたよ」という。しかし、こうした演出は生徒の目を一点に釘付けし、意識を集中させるのにかなり効果的であることもたしかだ。

 デカルトはその本の中で、人生には羅針盤が必要であることを述べている。そしてその羅針盤とは何か。それは万人がひとしく備えている「良識」だという。外部の権威に盲目的に従うのではなく、自らの内側に備わっている良識を磨き、これが指し示す真理を羅針盤として人生を生きていくことの大切さをデカルトは力説している。高校時代の私はこのシンプルな思想に大いに共鳴したものだった。

 もっとも、私の話のもう一つのテーマは、「人生の羅針盤」があれば、道に迷わないので、その分ゆとりができて、いろいろと道草を楽しむことができる」ということにあった。ただ闇雲にいそがしく走り回って人生を浪費するのはつまらない。

 目的地がはっきりしていれば、大いなる心のゆとりをもって、路傍の美しい花に目を留めたり、旅人同士、たのしい会話を楽しむことができる。こうした心を豊かにするすばらしい「出合い」が持てることが、羅針盤の大きな効用だということだった。

 私のこの話は好評で、「橋本さん、いい話をありがとう」と校長にも声を掛けられ、その他何人もの先生から「よかった」「感動しました」と言ってもらえた。あまり人前で話をすることの好きではない私だが、自分の考えていることがこうして多くの人の心を打ったと知って、いまさらながら、デカルトのいう良識の力を実感し、うれしくなったものだった。

 高校生の私はこのデカルトの考え方を胸にひめて勉強した。おかげで、さほど受験勉強もせず、家の山仕事をしたり、多くの文学書や哲学書に親しみながら、現役で目標とする大学の目標とする学部(理学部物理学科)に合格することができた。

 それは1969年のことで、全共闘の学生による安田講堂占拠があって、東京大学などの入試が取りやめになるという前代未聞のできごとがあった年である。

 私の父は元刑事で、私の下宿先もご主人が刑事だった。「学生運動をしたら出ていってもらうよ」と言い渡されたが、翌年の70年安保闘争に参加し、やがて下宿を追い出されることになった。赤旗やビラを配ったり、オルグをしたり、署名活動で一般家庭にもおじゃまし、そこのご主人と熱い安保論争をしたこともある。

 そして大学を二年間留年し、父から勘当され、やがて組織のあり方にも疑問をもつようになった。これもデカルトのいう「良識」に照らしてのことだった。他人の命令で動くのではなく、自分の頭で考えた結果のことである。組織を離れた後、中日新聞の朝刊と夕刊をくばりながら、自力で勉強し、大学院に進学した。

 今考えると、学生運動に参加したことは人生の大きな道草だった。しかし、これがあって私の社会観や人生観が大いに鍛えられたのだと思っている。これもまたデカルトに学んだ「人生の羅針盤」の効用であろう。

 こうした体験を振り返って、10年ほど前に、自伝「青年時代」を書いた。70年安保当時の学生の生き方のひとつのサンプルとして、関心のある方に読んでいただければうれしい。

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/seinen.htm


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