橋本裕の日記
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2005年05月05日(木) 失われた誇り

 私は人間に一番大切なのは「自己の存在が他者のために役に立っている」というプライドではないかと思っている。教育の目的も、一口で言えば、こうした「自尊心」を与えることだといえる。逆にこうした自尊心を奪うことは、反教育的なことであり、個人に対する犯罪である。

 兵庫県尼崎市JR脱線事故で107人もの人命が失われた。会社の安全性を軽視した収益中心主義が批判されている。しかし、作家の冷泉彰彦さんは「事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会」であると言う。

<事故に関する報道から浮かび上がって来るのは、収益至上主義や競争至上主義かもしれません。ですが、それも主犯ではないように思います。事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会という問題です。・・・

 思えば、60年代から70年代には社会には多くの専門職の人たちが、それぞれ誇りをもって仕事をしていたように思います。そして、東京都の国分寺市にあった国鉄鉄道学園がそうであったように、そうした専門職を養成する教育機関も機能していました。

 そんな専門職の誇りはいつの間にか消えてしまいました。まず、共通一次の導入によって、あらゆる大学に序列ができてしまい、更に学歴がそのまま社会階層、しかも唯一の階層の指標になってしまいました。有名大学の法学部や医学部が頂点であって、様々な専門職はそうしたエリートと比較すれば「下」であるというような意識が社会の隅々にまで行き渡ってしまったのです>

 たしかに、私たちが子供の頃、電車や鉄道の運転手や車掌さんは憧れの的だった。また、彼らも自分の仕事に誇りを持っていた。たとえ給料は安く、勤務は過酷であっても、彼らは社会から尊敬されているという誇りに支えられて仕事をしていた。

 同様な職人的な誇りを、警察官や教師ももっていた。私の父は警察官だったが、家族で旅行をしているときも、不正を目撃すると私服のまま毅然とした態度で注意していた。その様子を見て、私は父を尊敬したし、警察官を信頼した。父は一介の巡査でしかなく、退職するときも巡査だったが、そうした階級に関係なく、私は父を誇りに思っていたものだ。

 専門職に限らず、すべての職業人はその仕事に誇りを持ち、また社会もその誇りを正当なものとして許容していた。日本だけではなく、アメリカでもヨーロッパでも、労働者はこうした気概をもって生きていた。港湾労働者で作家のエリック・フォッファーの本を読むと、そのことがよくわかる。

 しかし、現在、社会から「労働に対する尊敬」が急速に失われつつある。それはたんに労働が金儲けの手段になってしまったからだろう。商法でいう「社員」とは「株主」のことで、社員はたんに会社に金でやとわれた「従業員」でしかない。

 今回のJR事故について、さいとーさんが、あるBBSに掲載された次のような文章を紹介して下さった。「教育」の名の下に、どんなにおぞましい「反教育」がこの国で行われているかを象徴する風景だと思うので、最後にこれを引用しておこう。

<JR環状線の鶴橋駅。近鉄鶴橋からJR鶴橋への乗換えでごった返すホーム。10人近いJRの新入社員が横一列に並び一斉に「オハヨウございます!オハヨウございます!有難うございます!」の連呼! 私は「何じゃ、こりゃ!」の驚きのあまり、歩きながらも彼らをまじまじと観察してしまいました。「有難うございます!」のところで全員、斜め45度のお辞儀を繰り返しているのです。

 交通機関のもっとも大切な仕事は「客を安全に目的地へ届ける」サービス業。この「オハヨウございます」は、何かが間違っていないか!? ほとんど呆れながら彼らをまじまじと見てしまいました。中の一人は眼鏡をかけた小太りの少年(私から見れば)。斜め45度に頭を下げるたび、メガネがずれ落ちるらしく、いちいちメガネを右手で掻き揚げています。それはそれは悲壮でした。

これが彼らの大切な仕事なんだろうか――。また、その理不尽に誰も「NO!」を唱えられない体制なのか?! あるいは「NO!]を唱えないイエス・マンだけをJRは集めようとしているのか?!

 サービスとは、客に慇懃な言葉を発して安心させることではありますまい。サービスとは、客がとうとう最後までその気配りに気がつかないまま、無事に、そのサービスを享受し終えることだと思うのです。

 今回の事故。運転手の過去が取りざたされつつあります。しかし私は、それ以前のJRの企業としての体質に問題アリ!と感じているのです>


橋本裕 |MAILHomePage

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