橋本裕の日記
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喫茶店の窓越しに、桜並木を行く人が見えた。白いマスクをつけている人がちらほらいた。先週の水曜日、鹿島と会ったとき、彼も白いマスクをしていた。文絵も軽い花粉症だったが、マスクをするほどではない。
ホテルで体を合わせたとき、鹿島はマスクを外さなかった。マスクをつけたまま、文絵の体をのぞき込み、もてあそんだ。文絵は自分まで変態になったようで恥ずかしかった。そんなことがあって、白いマスクの男を見ると落ち着かなかった。
国原から聞かされた話は文絵を絶望させたが、国原の顔を見ているうちに、少しだけ元気が出てきた。鹿島といずれ破綻することは分かっていたことだ。これを機会に、鹿島との関係を清算しなければと思った。
窓ガラスから差し込んだ光は、しばらくの間に日脚を伸ばし、テーブルの上に日溜まりを作っていた。そのぬくもりの中で、国原の注文したアイスコーヒーは飲まないうちに氷が溶けていた。文絵の注文したホット・コーヒーも口がついていなかった。
「昨夜はいろいろと考えて眠れなかった。明け方からうとうととして、目が覚めたところで、お前に電話したんだ。顔が見たくなった」 「こんな顔でよかったら、いつでも見せて上げる」
充血した国原の目がはれぼったかった。文絵は国原に同情したが、鹿島に裏切られ、洋子に裏切られた自分のほうが、よけい可哀想かもしれなかった。それにしても、国原に落ち度があったとは思えない。洋子はなぜ善良な国原を、ここまで痛めつけるのだろう。
「声も聞きたかった。お前はむかしのままだ」 「それって、誉め言葉かな」 「もちろんだよ」
文絵は名古屋に来た短大生の頃、国原のアパートで一緒に自炊していたのを思い出した。カレーライスやシチューを交代で作ったものだ。わずか5年ほど前のそうした生活が、今は遠い昔のようだった。
一緒に暮らしていた頃は、二人はお互いの下着まで洗っていたものだ。いとこいうより、兄と妹に近い間だった。それは二人の生い立ちがそうさせたのだった。
国原は昔から他人も自分と同じようだと思い、人生を単純に考える嫌いがあった。文絵が鹿島にもてあそばれていたと知ったら、国原はあきれて、文絵の顔など見たいとは思わないのではないだろうか。
しかし洋子には文絵や国原などが足許に及ばないような奥深い世界があるのだろう。ときとして見せる洋子の憂いを帯びた横顔は文絵が息を呑むほど美しかった。鹿島もニヒルでありながら、ぞっとするほど深い表情を見せるときがあった。
文絵はそんな鹿島の横顔を思い出し、ため息をついた。鹿島とはまったく雰囲気の違う国原の顔が目の前にあった。四角四面の健康そのものといった国原だったが、今は憔悴しているせいか、表情に翳りがあった。
剃り残した髭の陰翳も、国原を少しだけ渋い二枚目に見せていた。文絵はしばらくそんな国原の顔に見とれた。文絵の視線に気付いた国原は頬を撫でると、ストローに口を近づけた。文絵もコーヒーに手を伸ばした。
「お昼、食べたの?」 「いいや。でも、何か食べようかな」 「家にカレーライスならあるわよ」 鹿島に食べさせようと作ったカレーライスだったが、もう鹿島を部屋に上げることはないだろう。コーヒーを残したまま、二人は席を立った。桜並木を歩いていると、白いマスクをした男が通り過ぎた。木洩れ日のなかで、文絵の顔が少し上気していた。(明日に続く)
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