橋本裕の日記
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コーヒーを飲みながら、国原はいつになく寡黙だった。国原はもともと無口なたちのエンジニアだったが、文絵には幼なじみの気安さからか口が軽かった。文絵も冗談が言える男性は国原くらいかもしれなかった。
「結婚式は6月でしょう。いよいよ大詰めね。お互いに年貢の納めどきね」 文絵が水を向けると、国原は苦笑した。 「実は、洋子のことで、迷っている」
今さら何を迷うことがあるのだろうと、文絵は首を傾げた。3年前、文絵が今のアパートに引っ越したとき、手伝いにきた洋子と国原は初めて顔を合わせた。引っ越しが終わって、この喫茶店で3人でお茶を飲んだ。ちょうど今頃の季節で、桜並木に花吹雪が舞っていた。
その時、国原が洋子に一目惚れしたのだった。それから、国原がいかにして蛮勇を奮い、果敢に洋子にアタックしたか、文絵は洋子から逐一聞いていた。はじめてのキスの時、緊張で国原のお腹がグルグル鳴っていたという話まで、文絵は聞いていた。
それはとてもほほえましかった。文絵は国原を応援し、二人の恋が成就することを願っていた。婚約が成立し、式の日取りを決めるだけになったころ、国原が外国勤務になった。式のめどが立たなくなったと、洋子がこぼしていた。
「今が一番幸せでしょう」 「そうでもない」 「問題でもあるの?」 「洋子との結婚を考え直そうと思っている」
国原の口から、そんな言葉を聞こうとは思ってもいなかった。 「婚約を解消するということ?」 文絵は思わず身を乗り出した。国原は文絵から視線を逸らすと、はぐらかすようにして窓の外を眺めた。しばらくして、独り言のように呟いた。 「洋子には他につき合っている男がいる」 寝耳に水のことだった。 「それはほんとうなの」 「同じ会社の鹿島という男らしい」
文絵は息が止まりそうになった。そんなことがあるだろうか。洋子は鹿島を嫌っていた。それに、鹿島は文絵と付き合っている。
「そんなはずはないわ」 「まちがいない。洋子がそう言ったんだ」
昨夜、文絵と別れた後、国原は洋子をホテルに誘ったのだという。ホテルで国原は洋子を抱こうとした。ところが、洋子はそれを許さなかった。そればかりか、いきなり男がいると告白したのだという。
「鹿島という男とはつき合っていたことがあるそうだ。ところが他に女がいることがわかって、わかれた。その頃、僕が現れて、洋子は結婚する気になった。ところが最近、どういうわけか、鹿島とのよりが戻ったようだ」
国原は肩を落として、相変わらず外を眺めながら淋しそうに笑った。文絵も窓の外を眺めた。花吹雪が冷たい光りを散らしながらひとしきり舞っていた。文絵は一段と深い虚無の底に落とされたような気がした。(明日に続く)
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