橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
翌日、三人はバンコク郊外のアユタヤ遺跡を訪れた。しかし、文絵は楽しくなかった。国原は昨夜の出来事の後遺症だと思っているらしかった。いろいろ気を使ってくれるのだが、文絵には鬱陶しく感じられた。
洋子も腫れものに触るような目で文絵を見ていた。文絵は洋子の視線を感じると、すぐに顔をそむけた。洋子に腹を立ててはいなかった。ただ、無知だった自分が情けなかった。そしてそんな男に体を許し、それを幸福のように感じていた自分があわれでもあり、はずかしかった。
タイ旅行から帰り、文絵は二日ほど寝込んだ。アパートの窓から見える冬の空は青く澄んでいたが、文絵の心は晴れなかった。鹿島からは何も連絡がなかった。文絵はいつか、鹿島からの電話を心待ちにしている自分に気付いた。
三日目の朝、文絵は思い切って鹿島に電話した。「君と別れてからひどい風邪を拾ってね。おかげで寝正月だったよ。でも、今日はだいぶん気分がいい。会おうか」という屈託のない鹿島の声に、文絵は力無く電話口でうなずいていた。
その夜、二人はラブホテルへ行った。そして、その次の日、文絵は鹿島を自分のアパートに上げた。ベッドで鹿島の愛撫に身を委ねながら、文絵はもう自分がかっての自分でないことを感じた。
それから二ヶ月ほどが過ぎた。3月の移動で、文絵は本店勤務を離れた。新しい職場は名古屋市の近郊にある小都市で、通勤は不便になったが、洋子や鹿島と別の職場になったことでホッとした。
鹿島とはその後も交際していたが、洋子には内緒だった。洋子も何も訊いてこなかった。4月には婚約者の国原がタイから戻ってきた。金曜日の夜、文絵は誘われるままに、洋子や国原とレストランへ行き食事をした。
明くる日、突然、国原から電話を受けた。近くの喫茶店で待っているというので、文絵は化粧もしないで、素足にサンダルを穿いて出ていった。川沿いの桜はもう花がほとんど散っていた。風に乗って、花びらが午後の日盛りの中を舞い落ちた。
喫茶店は川沿いにあった。日当たりのよい窓ぎわの席で、国原は文絵が来るのを待っていた。ガラス戸越しに文絵を見て、軽く片手を上げるのが見えた。文絵は肩や頭についた桜の花弁を払ってから、喫茶店に入った。(明日に続く)
|