橋本裕の日記
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2005年04月07日(木) 初めて人を殺す

 人を殺すという体験は、なかなか味わえるものではない。社会的に許されない犯罪行為だし、良心の上からもとてもできることではない。しかし、戦争の場合は別である。兵士は戦場で人を殺さなければならない。

 たとえ戦場でも、ふつうの人間にとって人を殺すということは大変なことである。戦争体験者の手記をいろいろ読んだが、自分の殺人体験を赤裸々に書いたものはほとんどない。多くの体験者は、書くのを避けている。

 そうした中で、井上俊夫さんの「初めて人を殺す」(岩波現代文庫)は異色である。井上さんは自分の殺人体験を包み隠さず、それと真摯に向かい合い、その体験を掘り下げることで、戦争というものの残酷な本質に迫っている。

 井上さんが、初めて人を殺したのは、1943年(昭和18年)3月下旬、中国紅西省にある田舎町の外れの宿舎で初年兵として訓練を受けていたときだった。就寝中に非常召集がかかり、井上さんたち初年兵は村外れまで行軍させられた。

 そして東の空が白む頃、楠木しばりつけられた中国人を銃剣で刺し殺す訓練をさせられることになった。そのときの上官の言葉を、井上さんはこう書いている。

「今からお前たちの度胸をつけ、実践に役立つ兵士にするために、実物の人間を使った銃剣術の刺突訓練を実施する。相手はわが軍に敵対した憎っくき中国兵だ。なんらためらう必要はない。日頃、銃剣術で習った通りに動作すればよろしい」

 もと中国兵のリョウは井上さんたちの兵舎の食事係として働いていた男だった。「ワタシ、コロス、イケナイ! ワタシ、コロス、イケナイ!」と絶叫を繰り返すので目隠しさせられた。そしていよいよ刺突訓練が始まった。そのときの様子を、井上さんはこんなふうに書いている。

<(えらいことになったぞ。誰もこの場から逃げることは出来ないんだ。俺も人殺しをやらねばならないのだ。しかし、これも俺が男らしい男になるための、試験に違いない。こんな経験を積む機会はめったにあるもんじゃない)

 私はこのように自分に言い聞かして、順番が回ってきた時、銃剣をもって型どおりの突進をした。しかし、五体を蜂の巣のように突かれて朱に染まった軍服から内蔵をはみ出していたリュウは、既に死んでしまっているのか、それともまだ息があったのか。無我夢中で銃剣を突き立てた私には、なにか豆腐のようなやわらかい物を突いたという感触しか残らなかった。・・・・・

「おい、みんな、チャンコロを殺すなんて、ほんまに簡単なことやないか。これから俺は何人でも殺したるぜ」
 と武村二等兵が大きな声で、誰にともなく話しかけてきた。しかし、誰もこの男の相手になる者はいなかった>

 井上さんは日本兵の多くは善良な市民たちだったという。それではなぜ、その善良な市民達が残虐行為をしなのか。それはその背後に、「大日本帝国」の後ろ盾があったからだという。

<兵士が所属する帝国が、敵国とみなした国に侵略し、その国の軍隊と戦い、敵兵を殲滅せよと命じているからだ。時と場合によっては、敵国の非戦闘員を殺傷しても構わないとしていたからだ。

 恐ろしいことだが、兵士は一度残虐行為がもたらす愉楽を覚えてしまうと、もう病みつきになり何度でもやりたくなってくるのだ。殺人ばかりではない、略奪然り、放火然り、強姦然りである>

 善良な市民を獰猛な兵士に仕立て上げるには、オペラント条件付けの典型ともいえる日本軍隊の内務班教育が大いに力があったことも事実だろう。第二次大戦中の日本軍の発砲率はアメリカ軍兵士をかなり上回っていたのではないだろうか。アメリカ軍はこの日本式教育方を学び、ベトナム戦争では驚異的な発砲率を達成した。

 しかし、そのためにアメリカ社会そのものが大きく変質したことも事実である。戦後、戦時中の教育のあり方を反省し、平和路線を歩んだ日本とは大きな違いである。その日本でも、再び戦前・戦中への回帰がみられる。

 戦争体験者が世を去りつつあるなかで、井上さんたち戦争体験者の赤裸々な証言を、私たち戦後世代は注意深く読んで、その反戦の心を次の世代へと伝えていく必要がある。そうしないと、私たちはふたたび国の命令で「人殺し」をさせられることになるだろう。


橋本裕 |MAILHomePage

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