橋本裕の日記
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| 2005年04月02日(土) |
アメとむちによる支配 |
過ちを許す寛容さが大切だと書いたが、これには反論がある。失敗したとき、親や教師はこれを容認するのではなく、むしろ譴責しなければならない。そうしないと、子供は失敗したということにさえ気付かない。寛容さがむしろ子供をダメにしているというわけだ。
親や教師の与える「アメとむち」によって子供は成功と失敗を知り、善悪をさえ学ぶ。これはスキナーのオペラント条件付けの考え方で、今日のオーソドックスな教育理論である。この理論は教育者の被教育者に対する介入を積極的に支持する。
教育とは基本的にアメとむちによる「条件付け」だという考え方は、「人間の心は生まれながらにして白紙だ」というジョン・ロックの経験主義的教育論としばしば混同される。しかし、「人間の自由」を積極的に求めたロックが、こうした条件付け理論を歓迎するとは思えない。
それでは「条件付け」以外に、どのような教育理論が可能なのだろうか。これを批判するだけではなく、これに代わるもっと有効で人間性の本質に根ざした教育理論の構築は可能なのだろうか。
私はもちろん可能であると答える。それは「アメとむち」のかわりに、「内発的な欲求」に訴える方法である。犬や猫を教育するには「アメとむち」が有効だろうが、人間の子供までこれによって調教しようとするのは間違っている。なぜなら人間はだれでも「向上心」を持っているからだ。「共感する心」や「愛情」というデリケートな心も持っている。
こうした内発的な精神的欲求を育てていくことが大切であり、これは「アメとむち」からは生まれてこない。むしろ「アメとむち」による方法はこの内発的な精神を損ない、これを別のもので代用させようとする。その代用品とは「世間的成功」であり、つまるところ「金銭的な報酬」である。
今日の文明社会では、「アメとむち」によって教育された人がその大半を占めている。そして彼等はすべてのことを「収入の多寡」で判断するように条件付けられている。そしてこのことが、社会を共生的なものから競争的なものに変え、まっとうな人間にとって耐え難い場所にしている。
アメとむちによる方法は、「恐怖と不安」に根ざした方法である。こうした原始的な欲望を基盤にして、しかもこれを強化する。こうした方法で教育された人間に、精神的な成長は望めない。
「アメとむち」による条件付けは、人間性を育てる教育ではなく、人間を破壊する教育である。文明という名前のもとに、私たちはこうした方法で社会を弱肉強食の横行する野蛮な場所にしている。
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