橋本裕の日記
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万葉集は私にとって「かけ算の出合い」だと書いたが、そのような出合いをもうひとつ上げるならば、それはこの「日記」だ。日記を書く習慣がなければ、私の人生は違うものになっていたに違いない。
書くことは人生を何倍も深く味わって体験することだ。書かなければ残らないものが形になり、私の中に根を張り、そして新しい人生を育てていく。旅から帰り、道中を追体験しながら書いていると、その感を深くする。
大伴家持は15歳の頃から歌を詠み始めた。彼が残した470首の歌もまた彼の人生を形作る栄養素だった。歌とともに彼の人生がゆたかになり、彼はまさに家持その人になった。とくに越中での5年間は彼にとって決定的だった。彼はこの時期に生涯の半数以上の歌を詠んでいる。
万葉集の最後の歌は、759年元旦、42歳の家持が詠んだものだ。それは彼が因幡の国司として、国郡司らを饗応した席での新年を言祝ぐ歌である。
新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) (巻20−4516)
高岡市万葉歴史館の展示パネルのひとつに、万葉歌人たちの生存期間を一覧にしたものがあった。それを見ると、柿本人麻呂は大伴旅人や山上憶良よりも後に生まれて、早く死んでいる。もっとも旅人や憶良の歌はいずれも人麻呂の死後のものである。
また、家持の青年時代には、山辺赤人や高橋虫麻呂が活躍していた。盛んに宮中で和歌が詠まれ、和歌は詩文の中心にあった。しかし、家持が「初春の歌」を詠んだ759年になると、これらの歌人たちはもうこの世の人ではなかった。越中で友情を深めた大伴池主でさえ、謀反人として処刑されていた。
家持は68歳まで生きた。しかし晩年の26年間、彼の歌は一首も残っていない。なぜ歌を残さなかったのだろう。彼は「歌わぬ歌人」になったという説があるが、それでは何故彼ほど才能や実績のある歌人が歌を捨てたのだろう。
私はその理由が何となくわかる。和歌が輝きを持っていた時代が終焉を迎えていたのだ。もはや家持がどんなによい歌を詠んでも、だれもそれを評価できなかった。そうした孤独と逆境の中にあって、家持は万葉集を編纂し、これを後世に託したのだろう。
家持は死後、謀反の罪を着せられて官位や財産を剥奪されている。やがてその名誉は回復されたが、彼の歌が復権することはなかった。大正から昭和になって、彼の歌の文芸的な味わいや境地が人々に理解されるようになった。千数百年をへて、私たちの感性が、ようやく家持の後ろ髪をとらえたということだろう。
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