橋本裕の日記
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2005年03月03日(木) 人生を楽しむための学習

 昨日の毎日新聞の「読者の広場」にある70歳代の男性が「生きる力とゆとり教育」について書いていた。知識偏重からその批判としてのゆとり教育へ、そして再び知識尊重へと、この国の教育方針がゆれている。

 なぜゆれているのか。それは教育の目標が何であるのか、何のために勉強するのかという根底があやふやなためだろう。だから、国際学力テストの結果に一喜一憂して、世論が迷走し、教育方針が猫の目のように変わることになる。

 新聞への投稿はこの点にふれたあと、彼の年代の人たちは戦争や戦後の混乱の中で、教科書には墨まで塗られ、教室での勉強がまともにできていない。しかし、戦後日本の復興に大いに活躍した。それはそうした環境を反面教師として学ぶなかで自ずから「たくましく生きる力」がついていたからではないか、と主張していた。私にはその論旨がしごくまともに感じられた。

 先日の朝日新聞は、学習到達度世界一のフィンランドの教育を「比較・競争とは無縁」という題でレポートしていた。日本では教科の授業時間の確保が叫ばれているが、フィンランドははるかに授業時間数は少ない。朝日新聞が引用している年間平均標準授業時間の比較データー(「図表で見る教育」OECDインディケーター2004年版)を孫引きしておこう。

年齢(歳) 日本 フィンランド
7〜8 709時間 530時間
9〜11 761 673
12〜14 875 815

 フィンランドでは今年の総合カリキュラムの見直しで、日本でいう「ゆとりの時間」がさらに増やされる予定だという。改革の目標は「生涯に渡って学習する能力を身につけること」だという。日本の教育もこうした長期的に人生を展望した目標を持つべきだろう。

 私自身の経験によれば、高校受験で失敗したことが、皮肉なことに「生涯学習を可能にするゆとり環境の実現」へとつながったようだ。私のやむなく進学した二流の私立高校は、受験体制で固められた県立の進学校とはまるで雰囲気が違っていた。

 休日は山仕事でとられても、平日は学校が終われば天国で、自分で好きなことができた。高校の頃から哲学や仏教の本に親しみ、毎日厖大な時間を費やして日記を書いていた。物理の試験で赤点をとったり、塾や補習とも無縁のおよそ受験生らしくない3年間だったが、その自由によって育まれたもののおかげで、私の人生は幸せなものになった。

 毎日楽しんで日記をつけていられるのも、人生のあらゆる分野に出しゃばって「何でも研究室」を書くことができるのも、ときにはこっそりと何やらあやしい小説を書いたりできるのも、高校受験に失敗して「ゆとりの時間」を与えられたこと、その「幸運」を自分なりに活用して、「文章を書く」という人生を楽しみ味わうのに役に立つ骨太な方法を会得できたこと、これが大きいのではないかと思っている。


橋本裕 |MAILHomePage

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