橋本裕の日記
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掲示板に空さんが「性善説・性悪説」という題で、書き込みをしてくださった。その中に次の一節があった。
<もちろん人の決めた(善)は破られる。その意味では(性悪説)に拠らざるを得ない。しかしその(善)が本当に「善」なのかは疑問である>
これはとても深い言葉だ。「性善」「性悪」と言っても、それは人間が決めた「知識として蔓延している善悪」である。プラトンの言葉だと、それらが社会的偏見「ドクサ」でない保証はない。
それでは、真実「エピステメ」に至る智とはなにか。私は、「自分の頭で考えることを知っている人たちと議論すること」がその方法だと書いたが、他に道があるだろうか。もしあるとしたら、それは「啓示」や「直観」ということになるのだろうか。
プラトンは「人間は真実を知らないのではなく、忘れているだけだ」とも書いている。有名な「想起説」である。ときには、真実を「思い出すこと」も必要かも知れない。ふたたび、空さんの言葉を引用しよう。
<「ノイズ」があって錯誤を犯す人間もいる。感覚が上手く働かないのだ。心の一番奥から愛は流れて感覚を形成する。その心の声が聞こえない人間が多い。「ノイズ」の原因は人のつくった(善悪)だ>
これを読んでいて、私は柿本人麻呂の歌を思い出した。人麻呂が妻を石見の国に残して、都に登るときの歌だ。
笹の葉はみ山もさやに騒げども われは妹思ふ別れ来ぬれば
山が騒ぎ、世間が騒いでいても、そうしたノイズに惑わされずに、ただ愛しい人のことを思い続けている歌人の純粋な心がしのばれる。
人間はそうした大切な感覚を大切にすべきかもしれない。あまりに世俗的な智にかたより、打算と欲望の世界に輪廻していると、そうした天上の美しい音楽が聞こえなくなる。
脳はただシミュレーションするためにあるわけではない。人や世界を愛するためにもある。生き残りのためのシミュレーションも必要だが、ときには万葉集の歌でもうたって、そうしたノイズの渦巻く世界の外に出ていき、大切な人間の心を回復させる必要がある。
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