橋本裕の日記
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2005年02月25日(金) 性善説に傾く私

 私はもともと性悪説の信者だった。とくに青年期の私は仏教やキリスト教の影響を受けて、人間はほんらい性悪だが、このことを自覚して、自分を善なる存在へと造り変えなければならないと考えていた。

 しかし、大学生になり、社会科学に目覚めてからは、「人間は本来的に悪ではない。それは社会環境がそうした人間を作りだしているのだ」と考えるようになった。ジョン・ロックの「タブラ・ラサ(白い石版)」説の信者になったわけだ。

 ところが、その後、生物学など勉強しているうちに、「人間は本来善なるものに作られている」という性善説に傾いた。なんとなく「タブラ・ラサ(白い石版)」にあきたらなくなったのである。

 「タブラ・ラサ(白い石版)」を攻撃する人たちの多くは性悪説に立っているが、私はむしろ性善説に近い立場から、これにいささか批判的なわけである。とはいえ、私はロックの「タブラ・ラサ(白い石版)」の説を大変高く評価している。

 私を生物学を勉強して性善説に傾いたが、おなじく生物学や動物行動学の勉強して性悪説に傾く人もいる。むしろ、最近ではこうした人の方が多いのではないかと思う。これは生物の世界を弱肉強食ととらえ、そうした熾烈な競争が進化の原動力になっていると考えるからである。

 そしてこの原理を人間社会に適用したものが「社会ダーウィニズム」といわれるのもだ。「市場で競争し、優秀なものが生き残る」というのは「市場ダーウィニズム」で、これをアメリカなどの自由市場主義者は正しいと信じている。そしてここから今日のグローバリズムが生まれてきているわけだ。

 私はこれらの人たちとは少し違う視点から生物学を学び、進化論を勉強してきた。それは生物世界の全体を見る視点である。たとえば個々の木に注目しながらも、その木を活かしている森という全体にも目配りを忘れないでおこうということだ。

 その結果、何がわかったかというと、生物の進化は「共生関係」を育むものだということだ。生物世界は「競争の場」というより「共生の場」と考えた方がわかりやすいし、真実にも近いのではないか。そしてこのことは、人間社会の現実にもあてはまると考えたわけだ。

 善とはなにか。私の定義によれば、それは「共生関係を育てようとする志向性」である。生命はこうした志向性を持っている。なぜなら長い目で見れば、そうした志向性を持っている種は生存率が高いからである。つまり、自然選択の結果として、そうした志向性そのものが育てられることになる

 私の「性善説」は結果としての「性善説」である。そこに特別の宗教色やイデオロギーがあるわけではない。むしろ冷静な自然科学的立場に立った結論ではないかと思っている。しかし、その結論が、かって私が親しんだ宗教以上に、大きな安らぎと喜びを与えてくれていることも事実だ。私はこれが「天命を知る」ということではないかと思っている。


橋本裕 |MAILHomePage

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