橋本裕の日記
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もう20年以上も前に読んだ「真理とは何か」(大熊正著、講談社現代新書)を本棚から出してきて読み返してみた。そこに、こんなことが書いてあった。
<仏教でもイスラム教でも、真理への道を経典の中にのみ求めている限り、その宗教の活力は停滞し、思想は硬直していくようになるでしょう。
理科系の学問と文科系の学問との差異としてよく言われるのですが、理科系のものが当惑するのは、文科系の学問において「ヘーゲルの思想」とか、「ケインズ研究」などという著述が、解説書としてではなく、立派な学術論文として今もなお次々と発表されているという事実です。
必ずしもそれらの中に真理を見出していこうというのではないかもしれませんが、たとえば「ニュートンの思想」とか「ガウス研究」というようなものを書いても、数学史の資料としてならばともかく、数学の論文としては一顧の価値もありません。
古人の思想をいろいろな立場で解釈するというのも妙なものですし、そのように不安定で、不明確な理論ならば、改めて研究する価値もないはずです>
大熊正さんによると、「真理とは何か」をはじめて考察したのはプラトンらしい。彼は絶対的な真理や、絶対的な善の存在を信じていて、それを「エピステメ」とよんだ。問題は、それでは私たち人間はどうやったらこの「エピステメ」を知ることができるのかということだ。
万人が正しいと信じていることのなかにも真理でないものはある。一般に広く受け入れられていることがすなわち「エピステメ」ではない。プラトンはそれを「ドクサ」と呼んで区別した。
それが正しいことかどうかは何によってわかるのか。プラトン以前の人たちはこの問題を深くは追求しなかった。昔からの言い伝えや、権威者の言葉や、「聖なる書物」に書かれていることを真理だと考えていたのである。これを「典拠主義」という。
これに対して、プラトンは、真理は理性によってあきらかにされると考えた。「自分の頭で考えることを知っている人たちと議論すること」が真理へ至る道だと考えたわけだ。そして、このことを、彼の「アカデミア」で実践し、「対話編」と呼ばれるたくさんの著作を残した。
西洋の智の伝統は、このプラトンの精神を引き継いでいる。私たちは「典拠主義」ではなく、「自分の頭で考えることを知っている人たちと議論すること」をとおして、ドクサという幻想から自由になり、エピステメの世界に近づくことができる。
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